毛利秀就の殉死者について
萩市椿 臨済宗
大照院 毛利家墓所
初代萩藩主 毛利秀就(大照院殿)のほか、偶数代の萩藩主の墓がならんでいます。
毛利輝元の嫡男、秀就(ひでなり)は文禄四(1595)年、広島城で生まれました。五歳を間近にした慶長五(1600)年に関ヶ原の役が起こり、 西軍方であった毛利家は八ケ国(備中、備後、安芸、周防、長門、石見、出雲、伯耆)から周防と長門の二国に削封されました。
輝元は元和二(1616)年に隠居し、家督を秀就に譲りました。秀就の藩政は関ヶ原敗戦後の処置や幕府との交渉、藩財政や家臣の問題で 難しい状況にありましたが、毛利秀元、福原広俊、益田元祥ら重臣とともに『萩藩』の基礎を固めていきました。
秀就は慶安四(1651)年正月五日、萩城において五十七歳で亡くなりました。翌六日に「事件」が起きます。秀就の逝去に遅れては、
とその後を追う家来がいたのです。いずれも秀就の小姓で城詰であった小川兵部、信常右京、山名内膳、祖式主計、村上監物は萩堀内の小川兵部の
屋敷に集まり殉死しました。同じく元和八(1622)年、九歳にして召され、当時、藩の重役(当役)であった梨羽頼母助就云(なりとも)も速やかに
後事を整え、同月九日に屋敷において自刃しました。梨羽の殉死の意を知った藩士の他、町人までもがその死を惜しんで誓紙血判をもってこれを
止めようとし、岩国公(吉川氏)は梨羽の自宅まで赴いて阻止しようとしましたが叶いませんでした。
『有中はわきて仕うる君なれば みのはてまでも頼む行くゑ』
梨羽の辞世の歌です。時に三十八歳でした。 これが江戸時代初期の「武士」か....と思えるような事件です。
しかし、秀就の殉死者にはもう一つ、特記すべきことがあります。 梨羽就云には山本又兵衛盛春という家来がいました。毛利秀就にとっては家来の家来になりますから、萩藩陪臣という身分です。 山本は秀就に殉死した主人(梨羽)に殉死する形で共に自刃したのです。時に二十五歳、山本の辞世は以下のものです。
『高嶺より吹き来る風にさそはれて やまもとまても花そちりける』
これが主人に仕える家来なのか....と思えるような事件です。 この他、藩士(御供士)の久保五郎右衛門という人物も同十二日、秀就に殉死しました。
右の写真は秀就の墓所の全景で、正面に立つ二つの五輪塔墓は向かって右が秀就、左は正室(喜佐姫)のものです。
そして、その墓前左右に四基ずつ殉死者の墓があります。
秀就の墓に向かって左の四体
秀就の墓に向かって右の四体
秀就の墓に向かって右側の四体は、左より梨羽、信常、祖式、そして梨羽の家来、山本のものです。山本は陪臣でしたが、 主君に対する忠義により、秀就の墓前に墓を建てることを許されたわけです。しかし、他の藩士の墓と違い、一回り小さい墓で少し後方に
据えられています。
萩の観光コースにはたいてい毛利家墓所が含まれていると思いますが、大半は萩藩主三代以降、奇数代の菩提寺である東光寺(黄檗宗)に行きます。バスが入りやすいからか。しかし、私は大照院も重要スポットだと思うのですが。
それはさておき、これらの墓は秀就の墓石が竣工した明暦二(1656)年に墓前に据えられたといわれています。これは殉死から五年の後になります。すなわち、殉死者は本来それぞれの家の菩提寺で葬られたことになります。
田中助一氏は昭和四十八年に「毛利秀就の殉死者」(『山口県文化財』、第3号 1973年、17頁)という記事の中で、梨羽就云の梅岳寺をはじめとし、小川兵部は蓮華寺、信常右京は海潮寺、山名内膳は亨徳寺、祖式主計は徳隣寺、村上監物は隆景寺、山本又兵衛は梅岳寺、久保五郎右衛門は明円寺が菩提寺であることを示しています。梅岳寺は萩郊外の川上村、その他は全て萩城下のお寺です。このうち、梨羽、信常、山名、祖式、久保、山本の墓は残っており、村上は合葬墓が善福寺にたてられた、とあります。
これら殉死者の個人墓は今でも残っているのか?
−−−これを調べてみました。
梅岳寺については、平成2年に既に調査していましたが、平成19年にこれ以外の殉死者について、萩城下で墓地を探しました。結果として、信常の墓は合葬されて、個人墓はもはやありませんでした。山名と久保の個人墓も発見できませんでした。 以下が、現存する殉死者の墓です。
祖式主計 梨羽就云 梨羽家先祖合葬
葬萩市 臨済宗 徳隣寺 萩市川上 曹洞宗 梅岳寺
山本又兵衛 萩市川上 曹洞宗 梅岳寺
ガイドブックには無くとも、歴史的に興味深いスポットは多くあります。私が最初に大照院に行ったとき(もう20年以上前ですが)、 秀就の墓前に並ぶ殉死者の墓のことを話してくれたご老人がいました。今はこのようなことを語れる人も少なくなっているのではないでしょうか。
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