萩藩の士族とは


廃藩置県(明治5年)の後、萩藩士、卒(足軽、中間など)、陪臣、又家来などはどのようになったのでしょうか?

まずは、廃藩直前の藩の記録を見てみましょう。以下の表は明治2年にまとめられたものです。

この時点では、萩藩の関係者が士族と卒族に分けられています。

ざくっと言うと、藩政時代の三十人通、士雇あたりまでが士族で、足軽、中間などは卒族になります。卒族には門番やお城で調理をしていた者、時計の管理をしていたもの、茶道の道具の管理をしていた者、藩主の乗った舟の漕き手など、とにかく藩の運営に関わる全てに携わった人を例外なく含んでいます。

藩士が3000軒、卒は約4000軒で、藩の関係者は合計約7000軒となります。
士   族 3,000戸
11,589人
卒   族 3,991戸
10,262人
陪   臣 6,157戸
25,487人
郷   士 218戸勘場医
910人
農   商 113,674戸
497,925人

次の陪臣とは藩士を主人とするもので、6000軒強になっています。陪臣は士族か卒族か?
この時点では決められていないということです。

最後に、農民と商人は11万軒。
これより、士族+卒族+陪臣+郷士は全体の10%程度ということになります。


この当時の藩の古文書を見てみると、士族と卒族の間に準士族という階級があったことや、陪臣については禄高が1000石以上の主人に仕える者は、1000石あたりに士族1名、準士族2名、などという方法で仮に階級が付けられたようなことが分かります。

ところが、結局のところ、明治4年に士族とか、準士族、卒族という区別はしないことになり、全て士族になりました(士卒合併)。

ということは、藩政時代に多くの家来を持ち、地方では領主様と呼ばれていた武士たる武士も、足軽も中間も、藩士を主人とし、その家中で雑務をしていたものも、ともかくみ〜んなが士族になりました。

ホントか????
 本当であれば、士族+卒族+陪臣+郷士=13,316軒

ところが、これを完璧に立証するだけの史料は残っていません。

上の表で「士族」に分類されたグループの史料は残っていますが、「卒族」は全くありません。
「陪臣」は焼却処分された史料もあり、70%程度しか復元できません。
郷士だけの史料はありません。
そして、最も難解なのは、明治3年から「帰農」や「帰商」する者が出てきます。
明治8年までは士族には政府から年金(家禄米)のようなものが支給されていましたが、帰農、帰商をすることで結構まとまったお金がもらえ、それを元手に生計を立てる「元士族」がかなり出てきます。

一方、県庁では年金の支給のために、(私の知る限りでは)、明治5、8、13年に名簿が作られました。
しかし、明治5年の名簿は焼却処分されて半分もなく、8年もそんな感じです。
ただし、明治13年のものはほとんど残っています。

廃藩から10年も経過した明治13年の史料に書かれていることは...
家禄の支給が打ち切られ、その代わり国債のようなもの(金禄券)を支給された士族の名前が書かれています。
帰農者、帰商者は仕方がないとして、これを元に廃藩直前の名簿が復元できるかというと、これがなかなか....。

改名したものがかなりいて、世代も変わっている。なにより、この頃は徳山藩、長府藩、清末藩、岩国藩の関係者も名簿に区別無く書かれており、これを分離しなければならない。

さらにさらに.....、一代士族という集団も加えられているし、士族になった神官もいるようで....。

そもそも明治13年の名簿には名前と金禄券の額面とおおざっぱな住所しか書かれていない。


名簿どころか、その数もはっきりしないですが、武士社会の解体の過程やその後の研究には、これら散逸した情報をデータベース化する必要があろう、と考えています。
                                        
         2009.12.5