廃藩置県の顛末


270年続いた藩政時代の主従関係がどのように解体され、明治に続いていったかをざっとみてみましょう。

はじめにお断りしておきますが、これは萩藩に関することのみで、他藩のことは知りません。

明治2年9月  諸臣家禄改定

藩士の禄制の大改定が行われます。それまで1000石以上だった藩士はその1/10が新たな家禄となり、1000石以下のものは全て100石とし、100石以下の者は従来と同じ家禄となります。例えば、3000石であったものは300石に、150石の者は100石になるわけで、これは大改革です。藩士の階級は、上士、中士上等、中士下等、下士上等、下士下等、およびこれ以下のものになります。

明治3年4月  士族称統一
藩士の上、中、下の階級を「士族」に統一します。正確には、下士上等までが「士族」で、下士下等は「準士」、それ以下の足軽、中間などは「卒」になります。藩政時代の階級で言うと、無給通以上の藩士と数人の徒士、三田尻船頭の内、大船頭と中船頭、大坂船頭が士族になっています。

明治3年11月  士卒帰農商許可
士、卒のもので、農民や商人になることを希望するものには、これを許可し、その禄高に応じて一時金が支給されました。帰農はこの年のみならず、明治9年あたりまで毎年のように願い出る者がでてきます。どれだけの者が帰農したかはまだ集計するだけデータを集めていませんが、「少なくは無い」というのが私の印象です。

明治3年12月  給禄現石唱
これまで高唱え
(たかとなえ)といって、禄高で定義されていた藩士の年俸を手取りで表記するようになります。禄高の場合は「高100石」、手取りの場合は「米100石」というふうに変わります。しかし、「高」を「米」にするというほど単純ではありません。禄高=手取り、でないことは、「導入萩藩の家臣団と禄高」で説明しましたが、ここでも一定の算定方法に従って、それぞれの藩士の手取り米(現石)が算出されました。
算出方法については、『萩藩給禄帳』(マツノ書店,昭和59年)で樹下明紀氏が解説されています。詳しくお知りになりたい方は、この本をご覧下さい。簡単に紹介しますと、1000石〜、100石〜1000石、〜100石で算出方法が少し異なりますが、簡単に書けば
  禄高 × 0.4 − ご馳走米
(ごちそうまい)
になります。禄高の4割が手取りで(これは四つ成という藩政時代からの作法)、これから主人にご馳走米を差し出すという考えです。ご馳走米については、「導入」にも書きましたが、給料をもらったときに、給付者に「どうもありがとうございます。まあこれで何か召しあがってください」と一部を差し出すもので、これは本人がそうするとか、そうしないとかではなく、全員一律に引かれるものです。本来の手取りは「禄高×0.4」であり、それからご馳走米を差し引いたものを元に、明治政府が事務を行ってきたことを不服として、明治後期に各地で裁判を起こす者が出ます(秩禄錯誤、秩禄処分)が、いずれも原告の敗訴に終わっています。

ともかく、給禄現高唱で、藩士の年俸がどのようになったかを例示すると、

家格 氏名(安政2) 禄高(安政2) 現石(明治3)
一門 宍戸 孫四郎 高 11,329石5斗3升4合 米 283石2斗3升
寄組 高洲 平七 高  1,019石2斗8升8合 米  25石4斗8升
大組 桂 小五郎 高     90石 米  23石1斗2升
無給通 林 久右衛門 御扶持方4人高8石2斗2升 米   9石  1升
細工人 隅 国太郎 御扶持方1人米4石 米   4石9斗8升

というぐあいです。例に選んだのは1つ以外は無作為です。「桂小五郎」は桂小五郎(木戸孝允)です。

明治4年3月  士卒合併
藩士の階級は士族と卒族に分けられていましたが、結局のところ、全て士族になりました。

ここで萩藩陪臣について、当初は1000石以上の主人(藩士)に仕える家中では、1000石につき士格1名、準士2名とすることになりました。例えば主人が4000石の場合は、家来のうち4名が士格に、8名が準士になります。それ以外の者はおそらく「卒」と同様の扱いと考えられていたものと予想しています。しかし、結局のところ、士卒合併により陪臣も全て士族になっています。

明治4年7月13日  徳山藩合併
徳山藩が山口藩に合併し、徳山藩は廃藩となります。山口藩とはこのホームページで萩藩と呼んでいるものと同意ですが、幕末から藩庁を山口に移し、藩主も山口や萩を行き来していることから、山口藩と呼ぶようになったのでしょう。

明治4年7月14日  廃藩置県
山口藩が廃止され、山口県となります。

明治4年7月28日  藩庁改称
藩庁の名称が県庁に替えられます。


さて、廃藩後の武士の給料はどうなったのでしょうか?  

上では藩士一人一人に対して「現石」が計算されたことを紹介しましたが、これが明治政府から毎年支給されていました。
元武士に対するいわゆる年金です。明治5年の記録によると、山口藩知事となった毛利氏には政府から21,336石が支給され、元萩藩士のうち、帰農していない10,596人に対し、合計23,270石が支給されています。
このように
廃藩の後、明治政府から元武士に支給された年金を「改正米」といいます。改正米を支給するために、元武士の名簿は県庁に引き継がれ、管理されてきました。当主が替わる場合は、相続願いを、転居の場合もその願いを山口県権令(今の山口県知事)に提出する必要がありました。ところで、この改正米で生活できたのかどうか、ですが、これまでいくつかの例で藩政時代の手取りと改正米を比較したことがありますが、それほど変わっていません。確かに上表に示した宍戸家は高11,329石から米283石2斗3升と大きな減額ですが、廃藩とともに彼が抱えていた250人強の家来(萩藩陪臣)を雇用する必要は無くなりました。彼の家来の年金は明治政府が払ってくれるからです。一方、改正米が数石以下の場合、彼らは藩政時代から給禄だけで生活していたとは考えにくく、農業経営(地主)等、他の収入源をもっていたことが考えられます。

いずれにしても、改正米があるうちは、武士の生活もそうそうどん底にはならなかったはずです。しかし、明治政府としてはたまりません。政府予算から毎年、全国の元武士の年金が消えていくわけですから。そこで、
明治8年に「金禄券」を発行して、毎年の改正米の支給を打ち切ろうということになります。このような元士族に対する政府の方針が不平士族を生み、各地で士族の乱(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争)が起こります。

「金禄券」とは今でいう「国債」で、改正米の額面によって算定されました。これにより、以後の収入は国債の利子のみとなり、金禄券を売り買いすることも多発しました。

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うちの先祖は萩藩士だったと聞いている、などのことで、家系調査をされる方がおられますが、

まず、役場で取れるだけ古い戸籍(除籍)を請求します。家によって異なりますが、江戸時代に当主が替わった記載があることもあります。「前戸主」は名前だけの記載ですが、藩政時代につながる有力な手掛かりになります。これを出版物を中心に調べられるでしょう。
でも、戸籍と藩政時代の史料の接続は、そうそう簡単にはいきません。私がお受けしたお問い合わせの大半は、いつもそこがポイントで、且つ、難しい問題です。なぜ難しいか、理由は4つあります。

 1.戸籍制度が施行される直前(明治5年)に多くの者が名前(苗字ではなく)を替えている。
 2.帰農したものが予想以上に多い。
 3.明治初年の文書は断片的にしか残っていない。← 昭和期に焼却処分された。
    焼却処分中に県立図書館の職員が拾い上げたという史料もあり、たしかに閲覧して見てみると、あちこち焦げています。
 4.当初、卒族に分類された階級の名簿が皆無である。

10年前は明治といったらおじいさん、おばあさんの生まれた年号という感じでしたが、今では昭和初期のことも語れる人が少なくなりました。最近、10代の芸能人が昭和のことを昔と言っていました。まあ、昭和は64年もあるんで、しょうがないか。

以上、判っているようで、よく分からない近代史の一面でした。しかし、どさくさの中で、よく政府を立ち上げて切り盛りしたものです。