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明治初年の屋敷番地について

地番と屋敷番地

  • ◆ はじめに      

    「先祖探し」のお手伝いをする中で、これまで結構ご質問があった地番(いわゆる、番地)と 屋敷番地について書きたいと思います。役所で除籍謄本をゲットしたとき、「第〇〇番屋敷 (〇〇は数字)」という 屋敷番地を初めて目にしたのであれば、少々奇妙な感じを受けるかもしれません。「えー、番地と違うの?」と 思うでしょう。ここでは、その疑問に答えるべく、私の個人的な調査の中で積み上げた知見を紹介するもので す。
     これには、戸籍の作成と地租改正が、それぞれの制度を変更しながら進められたことに起因しています。以下は、 戸籍と地租改正に関わる内容が交互に出てきて、読みにくいかもしれませんが、お付き合いください。なお、ここに ある内容は山口県に限ったもので、他県のことは知りません。


  • ◆ 山口県区画分界の制定と運用(明治4年〜)

    明治4(1871)年4月、『戸籍法』が太政官布告として発せられ、県は戸籍の作成に着手しました。 この作業は翌5年までかかり、同年の十干十二支から、壬申(じんしん)戸籍と呼ばれています。この際、藩政時代の村(この他、 町、浦、郷などありますが、以下、「村」とだけ書くことにします)を整理・統合し、山口県区画分界が新たに 定められました。つまり、地名を整え、村ごとに特命の責任者(戸長(こちょう)・副戸長)を決めて、そこに住む人を 世帯ごとに調査していったということです。
     一方、前項の「地租改正について」で示したように、同時期に発布された『地券渡方規則』に伴い、一つ一つの土地(一筆)に ついて地価を算定し、地券を発行する作業も進められました。藩政時代には、宝暦年間に各村で検地が行われ、字(あざ)単位で 絵図が作成されました。これを小村(こむら)絵図といいます。このときは、地番という概念もなかったのですが、地租改正を 進める過程で、地番が村全体の土地の通し番号という意味合いで付けられました。そして、一筆ごとに地番、地目(田、畑、 郡村宅地)と面積、地価と所有者を書いた冊子が作成されました。これを『地券台帳』といいます。この台帳は、 単に地番順に地目が異なる土地を書き連ねるのではなく、同じ地目の土地を集めた冊子としたため、各冊子の地番はとびとびに なっています。このような整理は、後に地目を変更した(たとえば、畑を田に作り替えた)場合の事務処理を念頭にしておらず、 私にはともかく明治5年時点の土地の地価を定め、その土地の所有者から税金をとることを考えていただけとしか思えない のですが...。ともかく、地券台帳が作成され、一筆ごとに和紙に書かれた結構立派な『地券』がその土地の所有者に発行されました。
     一方、壬申戸籍には、本籍地として、郡名+村名+番号が使われました。 この番号として、上で述べた地目が郡村宅地の地番が使われれば良かったのですが、新たに「屋敷番地」というものが設けられ、 住居に通し番号を付けたものが使われました。ここで、「屋敷番地の詳細を知るためには、郡村宅地の地券台帳が残っていれば、 何とかなるのでは」と思われるかもしれません。しかし、屋敷番地はとびとびの郡村宅地の地番を詰めたものではなく、 地番との関係を意識せずに付けられたと考えています。これは、「番号の付け方」の項で、具体例とともに示しています。 また、当時の『地券台帳』はほとんど残存していません(全くではないですが)。よって、役所の窓口で「除籍にある屋敷番地は、 地番と同じか?」とか、「この屋敷番地は、地番ではどこになるのか?」という質問をしても、ほとんどの場合、「わからない」 と言われてしまいます。同様の質問を法務局でしても同じで、さらに法務局にあるのは、地券から土地台帳に移行した 明治20年以降の地番のデータであり、かつ、屋敷番地も管理していません。加えて、明治初年に付けられた地番や屋敷番地は 付け替えが行われた(次項で説明)ことを理解すれば、それはもう、愚問というところでしょう。


  • ◆ 大区小区制の施行(明治5年〜)      

    明治4年に「山口県区画分界」が戸籍区として設定され、戸籍作業は戸長と副戸長を中心として進められ ましたが、これとは別に藩政時代の庄屋や畔頭(くろがしら)も存在し、行政を行うという変則的な体制の村が多く ありました。そこで、明治政府は戸籍作業に目途がついた明治5年4月に、戸長の特命(戸籍の作成業務)を解き、 新たに包括的な行政を行う戸長と、従来の庄屋を副戸長とした新体制としました。これを期に、同年10月に「大区小区制」を スタートさせます。簡単に言えば、行政組織の改編と、郡、村名のナンバリング化ということになるでしょう。 ナンバリングとは、それまでの住所表記(〇〇郡△△村)に対し、大区を郡、小区を村に対応づけ、「第▽大区第◇小区(▽と◇は数字)」と 無味無臭な名称に変更したものです。
     ほとんどの郷土誌には、この程度の内容が書かれていますが、実は番地を付けた後でも、統廃合や分離が行われた村が結構 あります。例えば、A郡にあるB村とC村が統合され、新たにD村になった場合、当初、B村、C村それぞれに、村内の土地と 郡村宅地に、地番と屋敷番地がついていたわけですが、D村に統合されたことで、再度、地番と屋敷番地を付けなければ ならないということになります。このように、区画分界のマイナーチェンジを行いながら、行政が進められていったので、 その文書がいつの時期に書かれ、そのときの区画分界がどうなっていたかを明確にしないと、地番や屋敷番地は全く意味が ありません。


  • ◆ 小区の付け替え・構成される村の組み替え(明治8年頃)      

    すぐ上で、A郡にあるB村とC村の統合を例として説明しましたが、大区内の小区の付け替えも、その後、 行われています。さらに、上で「大区を郡、小区を村」と書きましたが、小区には複数の村が含まれていました。 それまで、一小区にあったE村が、ニ小区に編入し、そこに複数の村があったとき、地番や屋敷番地はどうなったのか?  これはもう、具体的なデータを蓄積し、実態を明らかにするしかありません。これについては、おそらく最も複雑で あろう萩城下付近の町村を対象とし、「萩城下付近の分析」に例を示しながら解説しました。ちなみに、なぜ萩城下を対象と するかというと、蓄積した士族の住所データが多いこと、そして、ニーズが高いからです。とはいいながら、これはデータ量に 依存するため、まだ全容解明とはいかず、さわりという感じです。


  • ◆ 地券の廃止と土地台帳制度への移行(明治20年頃)      

    山口県は明治5年から他県に先立って地租改正を進めた県なのですが、その作業には大きな手抜きがありました。 それは、一つ一つの土地を測量することなく、藩政時代の宝暦の検地をベースとした情報をそのまま使ったことです。さすがに、 宝暦から明治までは100年も経過しているので、図面と実態が合わないところもあったのですが、とにかく、完成を急いだ ところがあったのでしょう。案の定、運用していくと処々に問題が生じ、ついに明治19年に縄入れ(測量)を行いました。 さらに、土地の所有者に発行した地券も廃止とし、役所の土地台帳で管理していくという、現在とほぼ同じ方式に変更され ました。
     藩政時代の検地をベースとした地券(地券台帳)と、土地台帳を突き合わせようと思ってもなかなかむつかしく、 同じ所有者の土地を拾って突き合わせても、それぞれの土地の面積も結構変わっていることに気づきます。 これは、地租改正のときにこまごました田んぼを一つにまとめて一筆にした(図面にもそのことが書かれている)ことも大きな 要因です。
     一方、屋敷番地は基本的に土地台帳で扱う地番とは関係ないので、従前どおり(明治20年頃に付け替えられることもなく)、 戸籍の本籍地としてしばらく使われたようです。


  • ★ 明治19年式除籍謄本に書かれている地番や屋敷番地について      

    おそらく、ここに書かれていることに興味がある方が多いのではないかと思い、項目の見出しを★にしてみました。 (どうでもいい?)
     私は、「地券台帳」と同様、「壬申戸籍」も当初は、作成時のその世帯の実態をドキュメント化するために作成された きらいがあると感じています。これに対し、明治19年式除籍謄本は、流動的な世帯の状況を表現できるように、その形式が決定されたと 感じています。明治19年式は、保存期間満了により、廃棄した市町村も多いですが、これがゲットできたとして、そこに 書かれた地番や屋敷番地をどのように解釈するかということについて書きたいと思います。
     そもそも明治19年式は、明治20年前後に作成されたものですが、そのベースになったものは、もちろん壬申戸籍です。 本籍地が屋敷番地になっている場合、それは大区小区制が施行された後に付けられた屋敷番地になっています。ただし、 第〇大区第△小区ではなく、郡名や村名で書かれています。つぎに、その家の当主(戸主:こしゅ)が家督を相続した経緯が書かれます。 これが明治19年より前のことであれば、それは壬申戸籍からの転載情報ということになります。 このとき、例えば、その戸主が明治6年にF郡G村の△△番屋敷の▽▽家からの養子であった場合、仮にG村が後にH村に変わったとしても、 それは無視してG村△△番屋敷と書きます。ただ、屋敷番地の数字は意味がないと思ったのか、単にめんどくさいのかわかりませんが、 G村とだけで、「△△番屋敷」が書かれない場合もあります。いずれにしても、戸籍の記載はその時点での住所で書かれているということです。 だったら、現在と同じですね、というか、同じです。
     戸主が変わると新しい戸籍が作成されますが、そのとき本籍地が屋敷番地から地番に変わっていることがあります。このような 情報を集めれば、地番と屋敷番地の対応が取れるのですが、ここで注意したいのは、明治19年式除籍謄本の本籍地の 地番は、明治20年以降に導入された土地台帳の地番であり、一方、屋敷番地は明治20年より前のいつ、付け替えられた ものであるかという情報がなければ、対応づけてはならない、ということになります。
     もう一つ、本籍地は持ち家である必要はないということです。なんでもないところを本籍地にはしないでしょうが、しかし、 本籍地の地番を土地台帳で調べたら、持ち主が違っていたり、地目が宅地ではなく畑だったということがあります(これに付いては、 ここでは触れませんが)。先祖の痕跡を探すのは、簡単ではありません。


  • ◆ さいごに      

    萩在住の士族の本籍地は、明治初年から20年までの間で、結構変わっています。これは、上記の区画分界の変更に伴うものか、 それとも、本当に住むところを転々としたのか、はっきりしません。ただ、一つの家が、城下の一か所に屋敷を構え、ずっとそこに住んでいたというのは、 廃藩前後いずれも、そう考えない方がいいと思っています。廃藩前は大身の藩士は別ですが、基本的に武家の屋敷はいわゆる官舎であり、仰せ付けられた お役によっては引っ越すこともあるでしょう。廃藩後はというと、藩庁は山口市に移転して山口県庁となり、萩城も明治7年に取り壊されます。 「急速に」ではないですが、結果的に萩からの人口流出が起こってしまいます。もう年齢が行っていれば、萩で余生を過ごすのもいいですが、そうでなければ 食べていかなければなりません。
     同様に、萩城下在住の武士についてですが、本籍地近くに菩提寺があるだろうというのも、あまり(というか、ほぼ)正しくない観念と思います。 上で述べたように、同じところに長く住んでいたわけではない、ということに加え、お寺もずっと同じ場所にあったとは限りません。萩城下は松本川と 橋本川のデルタ地帯で、両川が頻繁に氾濫(はんらん)したことが知られています。夫婦ともに同じ日に亡くなっていて、「溺死」と刻まれた墓を見たことも あります。萩城下の干拓事業が進められる一方、水害の少ないところに引っ越すことは、自然なことでしょう。私が物心ついてから、萩で水害があったというのは 記憶がないですが、これは、昭和41年に阿武川開発総合事業が策定され、その結果、建設された阿武川ダムがあるからです。(完全に脱線しました。悪しからず。)


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番号の付け方

  • ◆ 地番と屋敷番地の関係を検証する

    「屋敷番地はとびとびの郡村宅地の地番を詰めたものではなく、地番との関係を意識せずに付けられたもの」と上で書きました。本当に地番と屋敷番地に 関係が無いのかについて、山口県内のある市のある大字を例に示してみます。ここは昔は村だったのですが、過疎化で人口も激減し、約30年前に小学校も廃校となったところです。 なぜ、この村を選んだかというと、ある程度まとまった屋敷番地と、そこを本籍とする氏名が書かれた文書を見る機会があったことにほかなりません。このデータは明治20年頃のもので、 登場する人物は確実に故人ではありますが(個人情報の問題は、無いといえば無い)、村名と苗字を赤裸々に使うと、現在もそこに住んでおられるご子孫に容易にたどり着けると 思われるので、ここではこれらの情報は全く伏せておきます。便宜上、Q村と呼ぶことにします。


  • ◆ はじめに:Q村の概要

    Q村の概要を以下の地図で簡単に説明します。便宜上、地図の上方を北にしています。

    Q村地図-1

    まず、地図中央より下方に県道が東西にはしっています(図中の太線)。この県道は川沿いの道で、県道の北側に狭い平端部があります。県道から市道A,B,C、Dが北側に 延びていますが、いずれの勾配も大きく、山間部を上っていく道になります。市道Aの入口にQ村の公民館があり、この市道を上っていくとかなり空き家もありますが、家屋が 点在しています。この市道A沿いの集落が一つの字(あざ)です。県道から市道Bに入ったあたりは、Q村でも最も日がよく当たるところで、田んぼが多く、住んでいる人も多いところで (といっても、今は20人程度でしょう)、しばらく走ると市道B沿いの集落の集会場と河内社があります。河内社よりもさらに北側と市道Aにつながる道の周辺はまた別の字だった ようですが、お住まいになっている民家は3軒程度です。市道Cの入口にこの字の河内社があり、沿線に民家が点在していますが、空き家も多いです。
     市道Dの沿線には家屋はありません。市道Eは県道の南側を走る川沿いの道で、今はその沿線に家屋はありませんが、ここにも昭和期には人が住んでいて、一つの字でしたが、 ダムの建設区域に引っかかり、地形は明治期とは大きく変わっています。


  • ◆ 共同墓地

    Q村で二つの共同墓地を見つけました。地図の墓地記号(⊥)で示したのがそれで、1つはわかりやすい県道沿いにありました(@)が、 もう一つは市道C沿いの小高い山の中にありました(A)。この共同墓地は、たまたま(というか、奇跡的に)付近で出会った方に教えてもらったもので、 行ってみるとかなり荒れていて、誰もお参りに行ってない(というか、もはや籔で行けない)感じでした。 両共同墓地で、屋敷番地のデータに出てくる名前の墓がないか調べました。共同墓地はこのほかにもあったかもしれませんが、とにかく過疎の村でこれが限界でした。


    共同墓地@


    共同墓地 @

     県道のルートにかかった旧墓地を県道脇の高台に移転したもの。新たに整備されただけあって、位置もわかりやすい。
     冬に調査したので、雪がところどころ残っています。




    共同墓地A-1


    共同墓地 A

     たまたま出会った人に教えてもらった市道C沿線の字の共同墓地。山林の中にあると言われたが...。





    共同墓地A-2





    これかー。
    墓地入口に六地蔵があった。





    共同墓地A-3





    お参りできるような感じでもないし、伏された(墓じまい)ものも多い。







    • ◆ ゼンリンの住宅地図と法務局での調査

      旧Q村内にある家屋をゼンリンの住宅地図で調べたところ、現在の地番が書かれていました。これが戦後行われた農地改革でナンバリングされたものか、それとも 明治20年に土地台帳を作成したときのものかを法務局で調べました。ん−、ラッキーなことに、Q村の現在の番地は、明治20年に付けられた番地と同じものでした。 あとは、番地に屋敷番地を対応させるだけですが...。


    • ◆ 番地と屋敷番地の対応づけ

      番地と屋敷番地を対応づけるのは、そう簡単なことではありません。屋敷番地が付けられた明治20年より前から、子孫がずっとその地に住み続けていれば簡単ですが。 先祖伝来の田んぼがあれば、ある程度定住が続くかもしれませんが、昭和30年代以降、どんどん人口流失が進んだものと思います。また、村を出ないとしても、県道より 北の不便で日当たりの悪い場所から、県道近くに引っ越したことは容易に考えられます。田舎に行くと、「昔、うちはもっと山の中に住んでいた」という話をよく聞きます。 一方、屋敷番地がわかっている氏名の子孫が正しく特定できるか、という問題があります。田舎は結構、同じ苗字の家が多いので。あとは、共同墓地(個人墓地も)からの 情報です。「大体この屋敷番地の家の墓がここにある」とわかれば、周辺の番地と大まかに対応づけられます。
       そのあたりを理解して(あきらめて)、ともかく地番と屋敷番地をQ村の地図に書き入れたのが下図です。 地番を、屋敷番地をで書いています。

      Q村地図-2

      これをざっと見てみましょう。まず市道A沿いの字の地番は1600〜1700番台で、北に上るほど番地は増えています。一方、屋敷番地は30番代前後で、 これも北に上ると増えています。市道B沿いは、900番代の地番の先に700番代、800番代があります。 ただ、この道沿いは上で述べたように世帯の動きが激しいと考えれ、屋敷番地との関連づけも これ以上深入りしないことにします。市道C沿いの字は、北上すると番地が100番代から300番代まで上がっています。屋敷番地のデータは三つしかないのですが、 北の方が小さい番号になっています。
       一方、共同墓地@にある墓にある名前は、屋敷番地が2から20番台あたりのものでした。付近に県道の建設で立ち退きになった集落があり、 それが該当するということでしょう。さらに、市道Eの先にあった集落は1000〜1100番地で、ここでわかっていた五つの屋敷番地に 対応する番地はすべて対応づけられました。細かいことですが、屋敷番地が139〜146と増えても、地番は増えたり、減ったりです。


    • ◆ まとめ

      これまでの考察のはしばしで、番地と屋敷番地は無関係ということにお気づきいただけたと思います。再度、下図のようにまとめてみました。

      Q村地図-3

      ・地番は西から東に移動しながら付けられている。これに対し、屋敷番地は東から西に移動しながら付けられている。
       ・市道C沿線の集落の番地は、北上すると番号が増加するが、屋敷番地は減少する(ただし、データ数は不十分)。
       ・繰り返しになりますが)市道Eの先にあった集落の地番と屋敷番地の増減の関係は全く一致しない。

       以上、地番と屋敷番地は無関係に付けられたであろうことが一応、証明できたかと思います。もう少し明解な村の調査結果も持っていますが、 また、機会をみて論文にするかもしれません。
       しかし、そもそもなぜ無関係なのか? これは全くの想像ですが... 地番は明治20年に検地をし直したとはいえ、何がしか藩政時代の検地や地名、旧領主の面影を引きづります。 一方、屋敷番地は「誰さんの家のとなりは誰さん、その隣は...」と道を歩きながら付けられる ものなので、そもそも性質が違うのではないかと。明治初年に戸籍を作るときに、村内の住居者を戸長と副戸長が一軒一軒訪ね、 苗字も一緒に考えたという言い伝えがあります。そんな折、屋敷番地もつけていったのではないでしょうか? 「戸長の自宅を一番屋敷にした」という 言い伝えもあることですし...。
       というところで、この話題はこれで終わりにします。



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萩城下付近の分析

  • ◆ はじめに

    萩城下付近といってもたくさんの町があるので、ここではいくつかの地番や屋敷番地についての分析を例示してみたいと思います。その前に、萩城下とその付近の町村がどのように区分けられたかを 示していきたいと思います。


  • ◆ 明治四年 「山口県区画分界」

    まずは、廃藩直後の萩周辺の管轄、区番号、区域を下表に示します。これは『萩市史』にあるものと同じなので、出典はこの本ということにしておきます(原文書は別にあるのですが)。 『萩市史』の縦書きの表を横書きにした感じになっています。なお、『萩市史』は平成の大合併の後の萩市を対象としているため、藩政時代の奥阿武宰判も書かれています。 この表もこれにならって書いています。このうち、上で書いた「萩城下とその付近の町村」とは、一〜八区のつもりです。藩政時代には、大井村・浦には徳山藩の飛び地(萩藩との入り合い地)がありました。 廃藩後、しばらくは元萩藩の庄屋と元徳山藩の庄屋が藩政時代の領土の事務を担当していたので、その余韻が八、九区には残っています。

管轄  区 域
萩部 堀内・古萩・南片河町・北片河町・呉服町一丁目・呉服町二丁目・瓦町・米屋町・西田町・恵美須町・古魚店町・春若町・細工町・塩屋町・津守町・樽屋町・今魚店町・油屋町
萩部 平安古一丁目・平安古二丁目・平安古・河添
萩部 江向・八丁筋・橋本町・御許町・唐樋町
萩部 古萩・東田町・上五間町・下五間町・吉田町・古萩町・熊谷町・浜崎町・浜崎新町・浜崎浦・大島・櫃島・羽島・尾島・相島
萩部 川島・下土原
萩部 椿西分・沖原・椿町
萩部 椿東分・中津江・小畑浦・越ケ浜浦・鶴江浦
萩部 福井下村・大井村・黒川村・大井浦
徳山部 奈古村・奈古浦・大井村・大井浦
奥阿武部 木与村・宇田村・惣郷村・須佐村・須佐浦・江崎村・上田万村・下田万村
奥阿武部 十一 福井上村・紫福村
奥阿武部 十二 吉部下村・吉部上村・高佐村・上高佐村・片俣村・嘉年下村・嘉年上村・鈴野川村・上小川村西分・上小川村東分・中小川村・下小川村・弥富下村・弥富上村・福田上村・福田下村・宇生賀村
奥阿武部 十三 徳佐上村・徳佐中村・徳佐下村・上地福村・地福村・篠目村・生雲村西分・生雲村東分・生雲中村・蔵目喜村
萩部 十四 川上村
萩部 十五 明木村・佐々並村
萩部 十六 山田村・玉江浦・三見村・三見浦
見島部 十七 本村・宇津村・浦方

  • ◆ 明治八年 「大区小区制」

    明治八年八月に「大区小区制」が導入され、前表にあった町村・浦は第二十大区(阿武郡)と第二十一大区(奥阿武郡)に分けられました。
     下表は第二十大区となった町村・浦を十四の小区に分類したものです。(『萩市史』には、各小区の戸数も書かれています。)

小区  町・村・浦
佐々並村・明木村
川上村
福井下村・福井上村
紫福村・黒川村
奈古村・大井村
椿郷東分
川島村・土原
古萩・萩町(東田町・上五間町・下五間町・吉田町・熊谷町・浜崎町・浜崎浦)・羽島・肥島・大島・櫃島・尾島・相島
萩町(西田町・瀬戸物町・小道具町・津守町・塩屋町・友貞横町・米屋町・戎町・相首町・瓦町・呉服町二丁目・呉服町一丁目・八百屋町・油屋町・紙屋町・古魚店町・北片河町・春若町・細工町・鍛冶屋町・樽屋町・今魚店町)・南古萩・堀内・北古萩
河添・平安古・萩町(南片河町)
十一 唐樋・萩町(橋本町・御許町)・江向・八町
十二 椿郷西分
十三 山田村・三見村
十四 見島



  • ◆「大区小区制」前後の屋敷番地の分析

    ここでは、「大区小区制」の導入にともない、屋敷番地が付け替えられたか? を見ていきましょう。データとして山口県令に対する士族の願書を使ってみます。

    ・元萩藩士(大組) 福嶋家
     福嶋与一(61才)は、明治7年4月28日に隠居し、養子の新吉(20才)に家督を相続することを願い出ました(@)。 翌年(明治8年12月)、新吉は健康上の理由で家督相続を辞退し、与一が再相続しました(A)。ところが、明治10年5月に与一が亡くなり、 18才の利質(としすけ、おそらく養子)が福嶋家の家督を相続しました(B)。 これら三通の願書に書かれている住所は、

       @ [前] 第二十大区阿武郡金谷第六区百六十番屋敷
       A [後] 第二十大区第十二小区金谷百六十番地
       B [後] 第二十大区十二小区椿郷西分五百五十一番地

    です。@〜Bのすぐ後ろの[前],[後]は大区小区制導入の前か後かを表しています。 「金谷」は椿西分(椿郷西分と同じ)にある字名で、大区小区制により第六区から十二小区に変わりました。@からAで区分けが変わっても屋敷番地は同じですが、 Bでは屋敷番地が変わっています。これについて、福嶋家の住居位置が変わっていないか、それともAからBで引っ越したかで、解釈が異なります。そこまでは情報がないので、 ひとまずこれは置いておきます。

    ・元中間格 乃美家
     本当にラッキーなことに、福嶋家の隣に住んでいた乃美家の情報がありました。乃美惣一は、他家の家督相続に関する願書の保証人として、その名前が見えます。 大区小区制以前の明治7年4月24日ものが一つ(C)と、以後のものが二つ(D 明治10年2月、E 明治11年1月7日)で、書かれている住所は、

       C [前] 第二十大区阿武郡第六区金谷六十一番屋敷
       D [後] 第二十大区第十二小区五百五十番地
       E [後] 第二十大区十二小区椿郷西分五百五十番屋敷

    です。福嶋家の住居(百六十番屋敷)の隣が乃美家(百六十一番屋敷)であり、これが大区小区制にそれぞれ五百五十一番屋敷、五百五十番屋敷に変わっています。これから、 おそらく両家とも引っ越してはいないと思われ、大区小区制導入の後、屋敷番地の付け替えが行われたものと考えられます。なお、Dでは「五百五十番地」とあり、「屋敷」が 書かれてませんが、県令への願書の住所は、全て屋敷番地であることは確認しているので、単なる書替え・省略です。
     福嶋家の例で、「@からAで区分けが変わっても屋敷番地は同じだった」ということの説明だけがつきませんが、Aは大区小区制導入の直後で、屋敷番地の付け替え作業が 完了していなかったのかも...、としておきましょう。
     もう一つの気づきとして、福嶋家と乃美家が互いの住居を交換したのでなければ(←まあ、そうでしょうが)、大区小区制導入前の屋敷番地は福嶋家の方が小さかったのに、 導入後は乃美家の方が小さくなっています。これはナンバリングの方向が変わったことを示唆するものです。

    ・元中間格 下村家
     下村義助も、他家の家督相続に関する願書の保証人として、その名前が見えます。 大区小区制以前の明治6年7月16日もの(F)と、以後の明治11年1月10日(G)のものです。書かれている住所は、

       F [前] 第二十大区阿武郡第六区濁渕三百二十二番屋敷
       G [後] 第二十大区第十二小区椿郷西分三百八十六番屋敷

    です。これより、大区小区制前後で屋敷番地が付け替えられたことは、確かといえます。まあ、それはそうでしょうが(なんでも、結論って、そんなもんですが、証明が 難しい)。
     無作為に選んだつもりが、これまでの例は椿郷西分(現在の萩市椿西)ばかりだったので、もう少し萩城に近いところの例を示してみましょう。

    ・一代士族 藤本清治
     藤本清治も、他家の家督相続に関する願書の保証人として名前が見えます。以下の通りです。

       H [前] 第二十大区阿武郡第二区南片河町六百七十六番屋敷
       I [後] (大区、小区の記載は省略されている)南片河町六百五十六番屋敷

    ・一門 阿川毛利家の元家臣(=陪臣) 熊谷家
     熊谷喜八も、他家の家督相続に関する願書の保証人として名前が見えます。以下の通りです。

       J [前] 第二十大区阿武郡第一区今魚店村千百十八番屋敷第一
       K [後] 第二十大区第九小区千十二番屋敷第一舎

    この他の例もあるのですが、大区小区制前後も住居が変わっていないとほぼ断定できるものが意外に少なく、これくらいにしておきましょう。



  • ◆ 明治19年式除籍謄本への移行

    「大区小区制」に伴って屋敷番地の付け替えが行われたとすれば、その後、大きな村の組み替えはなかったので、その屋敷番地(壬申戸籍に書かれたもの)が 明治19年式除籍(元は戸籍)謄本の本籍地に使われました。これを例示するには、結構、厳しいですが...。データが極端に少ないこととと、そろそろ実名で 示すことがまずくなるので...。
     明治20年前後に壬申戸籍は新しいフォーマットに書き替えられ、一応は屋敷番地が本籍地として使われて行きました。ただ、当然、家屋の取り壊しがあるため、 どこかを起点にして、そこから何番目の住宅という屋敷番地の意味合いが薄れていきます。また、家屋が新築されたときに、新しく屋敷番地を付け替えたり、 付け足したりするのもねぇ...、ということで、明治20年以降、次第に本籍地を地番に書き換える傾向が見られます。 その後、制度によって屋敷番地の使用は廃止になったものと思います(その条項を探すのも大変なので、ここではあいまい表現で)。


  • ◆ 蛇足ながら

    以上、示してきたように、地番と屋敷番地はそもそも連動せず、しかし他方の制度改正の影響を受けながら変遷してきました。それを私がこれまで蓄積してきたデータベースを 使って、まあまあわかりやすく説明したつもりです。
     先祖探しのご依頼があったときは、このデータベースを駆使して調査しています。ホームページで公開している部分は ほんのその一部です。先祖探しでお困りになったら、「先祖探し ... お手伝いします」の部分をご覧いただき、ご連絡ください。尚、単に「この屋敷番地に該当する現在の 地番を教えろ」というようなお問い合わせは、ご遠慮ください。




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