藩士の家格  分限帳と無給帳&分限帳掲載者


このページでは萩藩士の家格について、詳しく説明します。

はじめに、藩政時代は300年近くの歴史がありますから、この間に家臣団の構造や数が変わらないなどということは当然ありません。それではどのように変遷したのかは、まだ詳しくは調べられていません。ここでは幕末の安政2〜6(1855〜1859)年の家来帳をもとに、その時点の家臣団の構造と数を示し、これがどのように廃藩置県で整理されたかを述べることにします。

萩藩では、家来の禄高と氏名が書かれているいわゆる家来帳には分限帳無給帳の二つがあります。

分限帳は給付が禄高で規定されている(例えば、「禄高百石」という感じ)家臣を掲載したものです。ここで、禄高≠手取り、というのは前ページで示した通りです。禄高があるということは、それ相当の領地(給領地)を持っているということですから、その領地では領主様です。しかし、分限帳に載っている全ての者が領地を賜っているわけではありません。この場合、浮米(うきまい)といって、どこそこの領地というものはないものの、藩の蔵に入る(お蔵入り)米から領地をもっているのと相当の米を受け取ります。

無給帳は給付が扶持米(ふちまい)や銀で規定されている(例えば、扶持方一人)家臣を掲載したものです。扶持米は実質的には飯米(はんまい)で、一人扶持は人一人が年間に食べる米、ということになります。

上級の臣はみな禄高で給付を受けているので分限帳に載っていますが、中級あたりはその家々によって状況が異なります。そして、足軽、中間になると、みな無給帳に掲載されています。

萩藩の分限帳と無給帳は五年ごとに新調されており、それらは比較的そろっている(現存している)ので、これらを丹念に調べれば家臣の変遷は明らかになるでしょうが、作業としては大変です。それはともかくとして、安政2〜6年の状況に話を進めていきます。この分限帳と無給帳は活字本として発行されています(『萩藩給禄帳』,田村、樹下,マツノ書店)。

下の表は分限帳の前半部分の家格と人数を示したものです。

家 格 通番 人数
末家 長府、清末、徳山、岩国 1-4 4
一門 (一門八家) 5-12 8
寄組 13-58 46 (47)
一組(大組一) 繁沢石見組 59-174 115 (128)
   (手廻組) 御右筆 175-180 6
   (手廻組) 御茶堂 181-221,246 42 (44)
一組(大組二) 益田源兵衛組 222-245 24
一組(大組三) 福原相模組 248-388,247 142 (138)
一組(大組四) 椙杜駿河組 389-524 136 (135)
一組(大組五) 柳沢備後組 525-657 133 (130)
一組(大組六) 熊谷吉十郎−赤川蔵人組 658-794,795 138 (132)
一組(大組七) 内藤与三右衛門組 797-927 131 (133)
一組(大組八) 益田豊前組 928-1059 132 (124)
一組(大組九) 乃美織部組 1060-1190,796 132 (130)
一組(大組十) 国司主税組 1191-1329 139 (138)
一組御船手 船手組一 1330-1345 16
一組御船手 船手組二 1346-1360 15
大船頭 1361-1364 4
一組(寺社組) 1365-1415 51 (48)
遠近方触流 1416-1440,1441 25(+1)
通番は『萩藩給禄帳』で各家臣に付けられた番号。



人数は掲載者を数えたもので、( )中の数字は分限帳中で合計として示された数。両者に違いがあるのは、この分限帳が使用されている期間に様々な人事異動があったことによるものと思われるが、それほど変わらないので、前者をもとに議論を進めていきます。

毛利家の分家筋で支藩の藩主である末家(まっけ)は独立採算の動きをします。一門からが重臣です。寄組(よりぐみ)という重臣は46人の他、次の大組(おおぐみ)という中堅グループのヘッド(大組頭)として1〜2人が組の先頭に掲載されていますので、実際は62人です。
大組は130人強のグループを形成しており、この内、二組がローテーションをしながら江戸藩邸で勤めます。

手廻組(てまわりぐみ)は、右筆や茶道、乗馬や馬医、膳夫、儒者、軍法者などの藩主の側役集団です。船手組(ふなてぐみ)とは参勤交代などで藩主が船で移動する際の諸事をつかさどるグループです。組頭は村上氏で、戦国時代のいわゆる「村上水軍」の末裔です。寺社組(じしゃぐみ)は医者のほか、絵師や太鼓、狂言を極めた者の集団です。

高杉晋作の父の小忠太は大組一に、桂小五郎(後の木戸孝允)は大組七、周布政之助は手廻組に名前があります。

下の表は分限帳の後半部分を示したものです。前半とか後半というのはここで勝手に分けただけです。

家 格 通番 人数
御蔵元附小知行持 (無給通) 1442-1485 44 (51)
御膳夫 粟屋他仁吉、粟屋忠太郎組 1486 1
御鷹匠 1487 1
鵜匠 1488 1
児玉惣兵衛組 (供徒士) 1489 1
毛利虎十郎組 (供徒士) 1490-1491 2
御国歩行通 (供徒士) 1492,1493 2
御陣僧 (供徒士) 0
三十人通 1494,1495 2
1496 1
鍛冶 1497 3
木田之渡守 (厚狭郡) 1498
平郡之舸子 (大島郡) 1498 125


このあたりから、無給帳に掲載されるものが増えてきます。

無給通(むきゅうどおり)の者が44人いますが、これがこの家格である者の全てではありません。そもそも、無給通の「無給」は無給帳の「無給」と同意です。すなわち、次ページ示しますが、無給帳に載っている無給通の者が圧倒的に多く、500人強います。

鷹匠や鵜匠に続くのは供徒士(ともかち)という家格です。数が少ないのは、大多数のものが無給帳に掲載されているからです。
そして、三十人通(さんじゅうにんどおり)。
ここまでがいわゆる「武士」といわれる階級と考えています。

木田之渡守(わたしもり)と平郡之舸子(現在の山口県周防大島市の平郡島というところを本拠地とした船のこぎ手集団です:へぐりのかこ、と読みます)。この集団への給付は集団全体に対して禄高が規定されたので、分限帳に載っていると予想されます。

ここまでの掲載者は木田之渡守と平郡之舸子の人数を加えず、
1498人です。

これらの家は分限帳をたどっていけば、ある程度の系図を作成することができます
....実際は譜録(毛利家文庫)を閲覧したほうが早いですが。

但し、廃藩直前の分限帳と戸籍の接合が結構難しく、先祖捜しはそうそう簡単なものではありません
 ....蛇足まで