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ふすまはがし

ふすまの下張り (基礎編)

  • ふすまの下張りは史料の宝庫?

現代のふすまに使われている紙はそれなりに強度がありますが、昔はいらなくなった帳簿や手紙、図面などの紙を重ねて貼りつけ、強度を持たせていました。当時、紙は貴重品だったので無下に捨てたり焼いたりせず、下貼りとして使われたのです。よく新聞の地方記事に、『旧家のふすまの下貼りから幕末の志士の手紙 などが発見された!』というものを見ることがありますが、著明な人物のものではないとしても、明治時代や 江戸時代末期のいわゆる古文書が平成の今、発見されることはあるのでしょうか?
 回答はYESです。ここでは、私の古文書収集体験(現在もしていますが)をご紹介します。



  • ●ふすまを探す(1)

私の家から車で10分のところに、行き付けの古道具屋さんがありました。10年くらい年前に廃業してしまいましたが。本来は引越しや片付けが主体の店でしたが、引越しの際にお客さんから、「これを処分してくれ」と言われたり、「この蔵の中のものを処分して、きれいにしてくれ」と頼まれて、その時に持ちかえったものの中で 骨董的な価値があったり、まだまだ使えそうなものを並べているような古道具屋でした。悪く言えば、小汚いリサイ クルショップでした。人によっては、ガラクタにしか見えないものでも、人によっては「こりゃええ」とお金を出して買ってくれれば商売になるわけで、そんなことに魅力を感じない人には無用の店ですが。ともかく、私もいくつかの 『目的』をもってしばしばその店に通っていました。重要なことは、とにかく足を運ぶことです。

屏風

ある日、左の写真のような小さなふすまがちょこんと置かれていました。傷みが目立っていても、立派な絵が描かれている屏風(びょうぶ)などは、 修復すればそれなりの価値があるので、結構高かったりしますが、写真のものはどうしょうもなく汚いので、普通の人は買わないでしょう。かといって、 古道具屋のおじさんも100円、200円では 売ってくれない。結局、2000円払って持って帰りました。中にどんな古文書が入っているかは、 はがしてみるまで わからないので、結構冒険です。結局、中にあったのは幕末の庄屋の家の文書でした。



  • ●ふすまを探す(2)
ふすま2

その(2)は、ずばり、『もらう』です。場面は色々です。ふすまを新調されたときにもらうとか、「古いふすまはないですか?」と聞いたり。 しかし、全く面識のない家に、「ふすまを下さい」というのは、失礼でかつ危険です。
 右の写真は「下さい」とお願いしてもらったふすまの写真です。その家は先代が明治時代に購入したとのことでしたが、傷みがひどく倒壊寸前の家でした。しかし、家の作りはどことなく風格があり、「これは!」と感じる何かがありました。幾人かの人脈から大家さんに会い、目的を説明して戴くことができました。 とはいえ、変な人と思われたかも...。


ふすま5

左の写真のふすまは山口県萩市に程近い、田舎の旧家でもらったふすまです。この家は江戸時代は造り酒屋をしていたとのことでした。 別件で訪ねた時に、「古文書などを伝えておられませんか?」と聞いたところ、「それはないが....」と蔵から出されたのがこのふすまです。 一見、普通のふすまですが、少しはがしてみると中に古文書らしきものが。その場で枠を外した1枚のふすまをいただき、後日(1年後)、 残りの5枚ももらいに行きました。


  • ●ふすまをはがす

ということで、すぐ上に書いた萩市近郊の旧家から戴いたふすまを教材に、我流ではありますが、 古文書収集の手順をご紹介しましょう。
 まずは回りの木の部分を取り去ります。そして大きな『たらい』か何かを用意し、水をはって、そこに浸ける のです。水に十分浸けこんでからはがします。そんなことをしなくてもはげそうな気がして、少しづつはがして いくと、『バッリ」ということになります。和紙は水の中で生まれてきたのですから、水に浸けてもダメージは ありません。


水


いい加減な鉄製のトレイを使用しました。たらいでも何でもいいです。








つける


躊躇(ちゅうちょ)なく浸ける








水にしばらく浸けておくと、面白いように古文書をはがすことができます。ただし、慎重に。あせりは禁物。


 

文久

文久2年とかかれたものが出てきた。
西暦1861年、江戸時代の末期のものだ。









新聞紙

はがした和紙は丁寧に新聞紙にはさんでいきます。










丁寧

この後、1時間くらいして新しい新聞紙にはさみなおします。このとき、しわにならないように、丁寧に広げます。







これを繰り返して乾燥させるのですが、どうしてもしわがとれないときは、アイロンがけです。ただし、和紙は熱によるダメージが大きいので、なるでくアイロンは使いたくないものです。使うとしても、アイロンのダイヤルを『微弱』にして、短時間でしわを伸ばします。

完成



完全に乾いたら完成です。

  写真の下はふすまの表、上は下貼り



 

 ここまでは単なる作業。問題はこれから。古文書の正体を明らかにしてこそ、意味がある。





  • ●分類・整理

  • さて、先ほどの『教材』を分類することにしましょう。

帳面

まず、帳面形式のもので、その表紙と思われるものが7種類ありました(うち3つは断片)。年代が分かるものは4つで、文久2年、3年、元治元年とあります。それぞれ西暦で1862、1863、1864年であり、幕末のものです。 






帳面2

注目すべきは、これらには2つ折りにされ、端に2つの穴があけられていることで、そこにひもを通して帳面のようになっていたものをほどいて下貼りに使ったと考えられます。この帳面に綴じてあったと考えられる文書がこのふすまの大部分を占めています。






帳面3

7種類の表紙の穴の間隔がそれぞれ異なっていれば、それを手がかりに綴じてあったものが分類できそうですが、 間隔はほとんど同じでした。また、書いてあることも単純で、とても内容によって分類できそうにありませんでした。 例えば、右の文書には、

「同廿七日 晴天 一 一斗 蔵主.....」

とあり、前のページに何月か書いてあって、その同じ月の二十七日、天気は晴天、蔵主に一斗(米を数える単位)....」 のような感じで、一種の経理帳簿や家計簿のようなことが永遠書かれています。ということで、これらの分類はあきらめることに。


ご祝儀

ここで、1つ面白いことが。これらの紙を裏返してみると、右写真のようなものが時々見られます。上のものには「御祝儀」と 書かれています。また下は「弐百疋 十兵衛」とあります。すなわち、上は今で言う祝儀袋で、この紙にお金を包んで結婚式などに行ったと考えられます。一方、下は香典袋です。十兵衛が200疋(一疋はお金の単位で、25文に相当します)を包んだ 香典袋ということです。このように一度使った紙を裏返して、帳簿の紙として使ったということですから、紙が貴重であったということが分かるかと思います。


書状

さて、次は手紙のような文書の分類です。









まずはバラバラの断片をつなぐ作業をします。

つぎ1
つぎ2 












屏風

紙のサイズ、紙の質、筆跡で大まかに分類し、その後、端と端を合わせてみます。上の写真のように、つなぎ目にまたがった 文字を手がかりにすれば、比較的容易に復元できます。ただし、全てのパーツが1つのふすまに必ずあるというものではありません。 何ピースか無くしたバズルをやっているようなものです。根気よくやって、下のように復元できました。




  • さて、これらの手紙はなんなのか? いよいよ難しいところに入っていきます。



  • ●解読

  • さて、復元した手紙の正体を明らかにしていきましょう!

まず、いつ頃のものかということですが、幕末の帳面などと一緒になっていたので、まあ幕末でしょう。 実際にはふすまが痛んでくると、その上に補強として紙が貼られるため、ふすまの絵の裏は大正時代、 その下に明治時代、その下には江戸時代、と多層になっていることもあります。今回のふすまはそれほど 重ねられたものではありませんでしたので。手紙の最後には日付と宛名、書いた人物の名前が出てきます。
 下の手紙では「六月十二日」と月日だけ書かれています。まあ、このような手紙にはたいてい年号は 書か れていません。次に誰が誰に宛てたものか?

中嶋

これは中嶋甲右衛門が書いたものです。


でも、この人は誰?






残念ながら、宛名の上が無くなっています。書いた人物は「中嶋甲右衛門」。この人物が誰かを特定できなければ、 この手紙の正体を明らかにできません。手がかりとして、名前の横に「春英」と書いてあること。また花押があること。これから この人物は武士であることは間違いないと言えます。即ち、名字、通称名、名前の形式になっているということです。「甲右衛門」 が通称名で、「春英」が名前です。柳生新陰流の「柳生 十兵衛 光巌(みつよし)」のような感じです。

それで「中嶋甲右衛門」は誰なのか。このふすまは山口県内の旧家でもらったものなので、まずは「萩藩士」であると考える のが妥当です。早速、幕末の萩藩士の職員録ともいえる『萩藩給禄帳(はぎはんきゅうろくちょう)マツノ書店』の中にこの名前が ないか探します。この本に安政二年(1855)と明治三年(1870)の毛利氏の家来(萩藩士)が掲載されています。


....無い。 たいていはここで終わってしまいます。

ここで、文面に目をやると、重要なヒントに気づきます。



旦那様1

右の写真の2行目に見える「旦那様(だんなさま)」という文字。「旦那様」とは何か?

  萩藩主毛利氏に仕える家来が萩藩士であり、さらにその萩藩士に仕える家来を陪臣(ばいしん)といいます。毛利氏にとっては家来の家来です。陪臣は自分たちの主人(萩藩士)を「殿様」と呼んでいたかというと、 そうではなく、「旦那様」と呼んでいたのです。萩藩では「殿様」はあくまでも毛利氏だったようです。


旦那様2

右の手紙にも6行目に「旦那様」が見えます。このほかにも、「旦那様が○○なので、...」というものがかなりあり、これを書いたのは陪臣であることが予想されます。ではここでの「旦那様」は誰なのか?  言いかえれば手紙を書いているのは誰の家来なのか?






  • --- たいていは打つ手もなく、ここで終わってしまいます。

ここで私が長い年月をかけて作成してきたデータベースの登場です! 早速、データベースで「中嶋甲右衛門」を検索をしてみました。しかし、該当者なし。「中嶋」という名字で検索すると、一門宍戸家の家来に1人、 右田毛利家の家来に1人、大野毛利家の家来に1人、永代家老益田家の家来に1人、同じく福原家に2人、寄組の山内家に1人、同じく児玉家に 2人、同じく清水家に1人、大組の三浦家に1人、同じく三戸家に1人。合計12人がヒットしましたが、これではこの手紙の主が特定できません。



  • ここまでか、と思ったものの・・・・

    たまたまこの手紙の文面に登場した人物を私は知っていた!


原

5行目の4文字目からある

「御名代(ごみょうだい)原 對(対)次郎」









  • んっ、「原対次郎」は清水家の家来ではないか?

先ほど陪臣データベースでヒットした12人の中嶋の中に、確かに清水家の家来がいました。この人物は幕末、 明治期の当主で、「中嶋正之輔」という名前でした。もしかしたら親子か兄弟か、それとも同一人物かも? しかし、ここまで。これ以上は想像でしかありません(歴史に想像やこじつけは禁物!)。ともかく清水家の家来に 「中嶋」という姓の者がいたというのは事実です。他に名前は出てこないか...と探して見ると、

藤岡

あった! 写真中央の「藤岡直右衛門」なる人物。花押も書かれています。陪臣データベースで検索。 すると、明治初めの清水家の家来に「藤岡直右衛門」という人物が確かにいたことが確認できました。動かぬ証拠をゲット!




  • さらに
寺

5行目、中央に「清鏡寺」というお寺の名前が見えます。これは清水家の菩提寺(ぼだいじ)の1つなのです。 知っている人は知っている、羽柴秀吉の「高松城の水攻め」。このときの高松城の城主:清水宗治は家臣を守るために切腹 して秀吉と和睦しました。その清水宗治の供養墓があるのが「清鏡寺」であり、萩藩士の清水家はその子孫なのです。



  • ということは、「旦那様」とは萩藩の重臣、清水家の当主のことであり、このふすまに入っていた手紙は、清水家の家来達が書いたものだったのだ。

ということで、きっかけは原対次郎という人物が清水家の家来(次席家老)であることを私がたまたま知っていた、 という真にオタッキーなことで、文書の正体が明らかになったのでした。ちなみに、清水家の禄高は 3,710石。 幕末には自身の家来を64人抱えていました。熊毛宰判立野村(現在の光市立野)が主な領地でしたが、その他にも 舟木伊佐地、前大津俵山内七重、奥阿武吉部等を治めており、ふすまをもらったところに近い領地があることが 注目されます。

 「古文書の正体を明らかにしてこそ、意味がある。」と書きながら、これは容易なことではありません。ある家の ふすまの中から出た文書は、そのご先祖に関するもの、と単純にはいきません(←経験的に感じることですが)。 その理由として、

1.ふすまをくれた家のご先祖が昔からその家に住んでいるとは限らない。家の売買は結構頻繁である。
2.昔、家を建てる際に、ふすまは新調せずに、他の家から古いものをもらい受けて使うことがあった。
3.昔は紙は貴重品であり、ふすまの下貼として使用済みの紙が流通していた。

などがあげられます。このうち、3の影響は大きいと考えています。


赤

最後に、この色の付いた文書について、

一般に、やや黄色がかった和紙は萩藩の御用紙、また赤みがかった紙は徳山藩の御用紙ですが、 徳山のものよりかなり赤いです。ふすまから武家文書を見つけると、時たまお目にかかります。 内容からしても公のもので、且つ、重要な場合に使われたようで、一門以下萩藩重臣の家中で 使われたものと考えています。


とまあ、こんな感じで、今度は手紙の中身を見ていこうと思っているわけでございます。 古文書読解の実力もまだまだですので。

 では、この章はこの辺で。お読みいただきまして、ありがとうございます。



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