南役戦歿者之墓



10年以上前に、ある方から調査を依頼されたテーマについて、ここで紹介します。結局のところ、最終目的には到達できなかったのですが、調査の方法論としてご参考になればと思います。

福岡県北九州市小倉北区にあるお寺の境内に「西南戦歿之墓」という大きな墓があります。

「西南戦」というのは明治10年に西郷隆盛と明治政府軍が戦ったいわゆる西南戦争のことですが、その戦没者の墓がなぜ小倉にあるのか?


西郷軍は鹿児島から九州を北上しますが、「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」で有名な熊本県植木町の田原坂を超えることができず、その後、敗退、南下を余儀なくされ、結局、鹿児島の城山で西郷が自刃することにより終結します。

熊本県よりさらに北にある小倉の戦没者とは?

まずはそんなところから調査に入っていきました。
  
墓の前面には

  西南役戦歿者之墓

       従三位長輝書 (印)

とあります。印には「藤原長輝」と刻んであります。

また裏面には

 明治四十三年十月建設 

とあります。明治の終わりに建てられたようです。

興味深いことは、この墓に葬られている19名の名前が側面に彫られていますが、18名が山口県出身者であるということです。

!!
右側面  明治十年十月卒
  遊撃隊軍曹   山口縣人  吉原正助      兵卒  瀬川亀吉
                荒井貞一          坂本正蔵
                木村正兵衛         松尾十太郎
                千々松太郎         津森一郎
                石津英勝          木内亀蔵
左側面  遊撃隊兵卒
明治十年十月卒   山口縣人  品川友次郎         有田清房
                宮崎幸作          水田滝之助
                小林正吉          山本亀蔵
                長谷川卯之助  鹿児島縣人 中村半三郎
                三好滝蔵

                                               実際は縦書きです。   


山口県出身者で編成された遊撃隊という軍隊の17名、プラス鹿児島県出身の中村半三郎が葬られているようです。

まずは、聞き込み調査
 周辺で墓のことを聞いてみました。その内容としては、

1.元々は一人一体の墓が並んで立っていたが、明治の終わり頃に今の墓にまとめられた。
2.この墓は、西南戦争で
小倉まで逃げてきた者達が最後に小倉で囲まれ、「これまで」と集団自決した
  というものである。

現地で得られた情報はここまで。1.は墓に明治43年10月に建てられたことが刻まれており、正しい情報と思われました。しかし、2.は明らかにおかしい。
西郷軍の挙兵は明治10年の2月15日、その後の足取りとしては、
     2月22日  西郷軍、熊本城を包囲
     3月20日  田原坂戦、西郷軍敗退で終結
     9月 1日  敗走の西郷軍、鹿児島に入る
     9月24日  西郷、城山で自刃
即ち、墓に刻まれている「明治10年10月」は既に西南戦争が終結した後であり、なぜ山口県出身の兵が逃げる必要があるのか、また先に書いたように、小倉が戦場になった事実も無いはずです。

ここで、もし仮に集団自決ということであれば、亡くなった18名は基本的に同じ日に亡くなったはずです。
しかし、墓には明治10年10月としか刻まれていません。いったい何日なのか?
これを明らかにするため、一人一人について調べることにしました。

一人一人の調査  −古文書編 (ここからが難解)
 まずは文献調査。山口県文書館の蔵書目録に目を通しました。山口県庁の戦前の文書群(県庁戦前A)に西南戦争関係の文書が複数あり、これを閲覧。結構、時間のかかる作業でしたが、探せばあるもので、2つの文書に墓にあった15名の名前が発見できました。
 例えば、「木村正兵衛」については、「熊本山口西南三役戦病死遺族取調上申書」という文書に記載があり、出兵で亡くなったことにより、明治政府から遺族へ現金50円が支給されたことがわかりました。住所は萩の今古萩町。出身地が特定されました。しかし、亡くなった日は分かりませんでした。

 「石津英勝」は「遊撃第七大隊名簿」という文書に名前があり、萩の椿郷東分村の出身と分かりました。墓に刻まれた「遊撃軍」と文書の「遊撃」が一致しました! 石津英勝の名前の上には「士族」と書かれていたので、萩藩の分限帳やそのころはあまり整備できていなかった私の陪臣データーベースで調査し、藩士(大組)の宇野家の家来(陪臣)であることが分かりました。「英勝」が亡くなったあと、「恒祐」が家督を相続したたことも、他の文書から確認することができました。この文書の中に、

 「石津英勝儀軍曹拝命出張□□候処明治十年十月十日豊前国於小倉死亡仕候」  (□は虫食い)

とありました。石津英勝は軍曹を拝命し、出張したところ、明治10年10月10日に小倉で死亡したというものです。亡くなった日が分かりました。ということは、自決は10日か??? ともかく、有力情報です。

 一方、別の隊士「長谷川卯之助」は名前の上に小さく「病死」と書かれていました。これはいったい...。

このように、複数の文書を使って墓に刻まれている人々の身元を徐々に明らかにしていきました。

 同類の記録は国立公文書館にもあり、1996年12月に閲覧しに行ったのですが、ここでも結局は死亡日に関するまとまった情報は得られませんでした。


一人一人の調査  現地調査編
 17名のうち、出身地(村)が特定できたのは15名でした。この情報を元に、その村での調査を行います。といっても、聞き込み調査では亡くなった日は明らかになりません。現地調査とは
墓を探すということになります。実はこれは容易なことではありません。
 例えば、15名のうちの一人、「品川友次郎」は柳井村出身と分かったのですが、柳井村は今の柳井市。柳井市内の全ての墓地を探すなんて、物理的に無理です。このような調査の都合で対象者が減っていきます。対象者を絞り込んでも、そもそも100年以上前に亡くなった人の墓ににたどり着ける可能性は決して高くはないでしょう。

 それはそれとして、まずは一人目、今は美祢市にある、某村に出かけました。この隊士と同姓の方が複数住まれている集落に行き、近くの墓地を探したところ、ビンゴ!


 明治十丑年旧九月八日
 陸軍軍曹○○○○墓 
  
(子孫が特定されないように名前は伏せておきます

という墓(右写真)が見つかりました。

 旧9月8日って....。旧暦で書いてあるので、これは帰ってゆっくり調べよう、ということになりましたが、この日は収穫がありました。

 次に探したのは、現在は山口市に合併された郊外の村。小さな村で共同墓地ですぐにその姓の代々墓が見つかりました。傍らに古い墓が並んでいて、その中に、

 △△△△△△△△     ← 法名
 陸軍兵  ○○○○    ← 氏名
 明治十丑年旧九月五日


と刻まれた墓がありました。上の旧9月8日とは3日のずれがあるが....と、先が見えそうになってきた調査に興奮しながらメモをとりました。

 この次の調査はある意味、決定的な収穫を得た日でした。美祢郡にあるある村。事前に調べたところ、わりに珍しいお名前で、このご子孫かと思われる一軒が村にあることが分かり、早速、この家を訪ねました。玄関には「靖国精霊の家」というプレートが張られていました。間違いないかも...。
「ごめん下さい」と声をかけ、ご主人が出てこられる。このとき、いつもどう切り出したいいものか、少しとまどってしまうのです。本業で名乗っても、聞きたいこととは無関係。「趣味で歴史を調べている山口市の○○ですが」は、素直だが、何を言っているの?というような目で見られることが多くて...。まずは、あやしい訪問販売人かのような目で見られます。これは平成に入ってから、特に強く感じるところで、困った世の中になったものです。とにかくゆっくり、丁寧に聞きたいことを説明しました。ご主人も西南戦争で亡くなったご先祖のことを認識されていて、急ににこやかになり、「よく来られました」と歓迎してくれました。

 そして、墓を見たい、とお願いしたところ、「墓はすぐそこにある」と歩き出されたと思うと、軽トラまで案内され、「乗れ」と言われました。先ほどまでは見ず知らずの人が運転する軽トラの助手席に乗り、それから山に向かって走り、停まったたかと思うと、林道の入口に張ってあったロープをほどきに降りられ、再び軽トラでその林道を2、3分走りました。途中、この林道はいつ頃造って、自分が管理していて、...みたいな話しも聞きました。
 やっと到着。すぐそこではなかったなあ、と軽トラを降りて見回しても、墓地らしくない、藪を切り開いたような斜面ばかりでした。ご主人は、「えーと、この辺だったかな」と枯れ木の枝をはぐっていき、「これだ」と小さな墓の存在を教えてくれました。なんと、これはご主人に会わなければ絶対に分からなかった。勇気を出して家を訪ねて良かった、と思いながら、墓に刻まれている文字を読み取りました。

○○○○墓
明治十丑十月二日
薩州戦争カヱリ黒崎病死

ありゃー、戦争の帰りに黒崎で病死と書いてある。「黒崎」は昔は黒崎市、後に小倉、門司、若松などと合併して今の北九州市になったのです。自決説はさらに苦しくなった....。


そして総括

古文書調査と現地調査から得られた隊士の亡くなった日をまとめて表にしました。旧暦については新暦対応表で調べました。

隊士 1 明治10年旧9月9日
 →明治10年10月14日
隊士 2   明治10年10月10日  於西小倉死亡
隊士 3 明治10年旧9月6日
 →明治10年10月12日
隊士 4   明治10年10月 2日  薩州戦争カヱリ黒崎病死
隊士 5        不明  病死

自決して、そのとき死にきれなかった...、としても、4人の亡くなった日が全て違い、さらに、病死という記載が複数あることを考えると、もはや自決説は成り立たないことになります。

では、明治10年10月頃、小倉で何があったのか? 最後にそのことについて書きたいと思います。
 県庁戦前Aに「維新功労者調 知事官房」という文書があります。この中に、
「別動遊撃第二中隊」の西南戦争時の動向が詳しく記載されています。
 この隊は、明治10年5月21日に編成され、同29日に萩でおきた暴動を抑えるため、萩に進軍します。その後、6月中旬に九州へ向かいます。それから、臼杵、鏡峠、床木村、切畑峠、下直見村港口、神内赤木村、大越山などの地名がでてきて、防戦という記載も見られます。7月3日には鳥羽山に進軍したものの、進撃が不利とみて、前塁を守るという、生々しい記載があります。その後も防戦、進撃を繰り返し、9月1日に熊本花畑に入ります。ところが、同月24日に西郷が自刃し、平定ということになります。27日から、この隊は陸路で引き上げを始めます。小倉に着いたのが10月10日、現地(小倉)解散となったのが12日のことです。実際には15日には多くの隊士が帰県しています。

 墓に葬られた隊士が「別動遊撃第二中隊」そのものかどうかは分かりませんが、帰郷の途中、小倉の手前の黒崎で亡くなった隊士は2日が死亡日、その後、解散までの間に他の隊士が亡くなっており、別動遊撃第二中隊の動向とよく一致します。さらに別の文書から、小倉に終結した当時に、現地で
コレラが流行していたことも分かりました。

 以上より、今回調査した西南戦歿之墓は、西南戦争の岐路もしくは解散場所の小倉近郊で亡くなった隊士を一括して葬ったもの、と結論づけるのが妥当のようです。


 この調査は墓に刻まれた18人の隊士のうちの一人のお孫さんにあたる方から、「亡くなった日(命日)を調べてほしい」、と頼まれて始めたのですが、それは未だに分かっていません。

 いつもこんな感じで、中途半端な調査がたまる一方ですが、別の調査をしていると、新しいヒントに出会えるものです。それもあってか、性格か、現在もかなり多くのテーマを抱えている状況です。


 ということで、このページはおわります。