奇兵隊士の分析 1.従来の研究


「長州藩の諸隊といえば奇兵隊」というぐらい有名なのがこの隊です。他にもかなりの隊が結成され、活躍したのですが、高杉、木戸、山縣、伊藤という感じで維新を取り上げれば、例えば「振武隊」、「整武隊」というような隊はマイナーになってしまうのでしょう。ともかく、幕末期における藩の状況、それにともなう諸隊の位置づけも刻一刻変わっており、どの時期に結成され、どのように変遷したかということは、単に「諸隊」と大括りにできず、隊ごとに個別の調査が必要と考えています。

 
吉田松陰が、「草莽崛起(そうもうくっき):「草莽」は草木に潜む隠者のことで、一般大衆を指す、「崛起」は立ち上がること)」という考えに到達し、これを門下の高杉が具現化したということで、奇兵隊は一般大衆による兵で構成されている、すなわち農兵という説が、何となく広く、根深く浸透しています。

 一方、当初の奇兵隊研究は、『防長回天』や『奇兵隊日記』を中心とした分析によって行われてきました。例えば、高杉晋作が藩主にあてた上申書に、

 「この先、合戦ごとに勇怯(ゆうきょう)も相顕れ(あいあらわれ)申すべくに付き、日記つぶさに相整(あいととの)えおき、差出すべく候間、賞罰の御沙汰、陪臣軽卒に拘(かかわ)わらずすみやかに行れ候様仕度存じ奉り候」

とあり、戦功をきちんと記録し、評価する、という目的で日記を付けたことが分かりますが、ここで、「陪臣軽卒に拘わらず」とあることに注目し、藩の正規軍(藩士で構成された)」とは異なり、
陪臣や藩の足軽や中間が含まれている、ということが指摘されました。

 『奇兵隊日記』は、例えば今、私がパッと開いたページにあった慶応元年閏5月13日のところを書くと、

        同十三日                直日  山根辰蔵   

    一 山縣狂介同良輔片野十郎會田春輔用事有之山口江罷越候事        
    一 矢野登一隊用有之山口江罷越候事
    一 山田鵬輔歎願之趣有之今日ヨリ山口江罷越候事

 この日の日記を書いた山根辰蔵は何者?山縣狂介は、後の山縣有朋ですが、山縣良輔、片野十郎、會田春輔は?、矢野登一? 山田鵬輔が歎願して、山口に? となります。山口に行った理由も用があったとか、隊の用事とか...。たとえ日記を丹念に読んで、登場人物を書き上げ、これらの人物の動きをまとめても、そもそも隊士は何人いて、どんな素性の人たちがいて、それがどのように隊で編制されたのかが分からなければ、それ以上の分析はできません。やはり日記は日記だということになります。ですから、「隊士の名簿」というのは研究には是非必要なものでした。しかし、まとまった形の隊士の名簿というものはしばらく出てきませんでした。

 それが、昭和40年に『郷土』という下関郷土史会の会誌に10隊の名簿が掲載されました(※1)。奇兵隊の名簿も含まれていますが、いずれも隊の編制にしたがった名簿で、隊士一人一人がどのような身分であったかということは分かりませんでした。翌、昭和41年9月に、同じ『郷土』に「忠勇義烈 長藩奇兵隊名鑑(※2)」という隊士の身分が書かれた奇兵隊士の名簿が掲載されました。隊士の本多友一という人物が記載し、山縣有朋公爵家に所蔵されていたもので、その分析(下関市立大学 小林茂氏による)も『郷土』に載っています。
 
まず、身分を士、農、町、社・僧、と分けて、隊士を分類すると、

272人 48.6%
237人 42.4%
25人 4.5%
社・僧 25人 4.5%
559人   

とあります。農兵どころか、48.6%も武士がいるということになります。 ←本当かどうか....

次に、士の中身を詳細に分類した表があり、

幹部級 6人 2.2%
直 参 33人 12.1%
諸 組 42人 15.4%
陪 臣 129人 47.4%
扶養者 49人 18.0%
支 藩 10人 3.7%
浪 人 3人 1.1%
272人   

となっています。陪臣(萩藩士の家来)が約半数もいる、ということになります。 ←本当かどうか....

 この後、分析では農民の出身地や身分ごとの入隊時期がまとめられており、むすび、に続きます。この一番目を引用すると、

(1)まず武士出身者については、その人数において全構成員の半分に近い比重を占めている。そしていわれるように、軽卒の者が多く、ことに陪臣が圧倒的である。これは既に結隊当初から、藩の正規軍から蔑称されたところである。このことは逆に、軽卒の士として伝統的な正規軍では十分に力量を発揮し得にくかった連中が入隊したことを示し、その意気の高揚が奇兵隊を通して藩政を次第にリードしてゆき、やがて討幕にもちこんでいった原動力となったものと思われる。

とあります。

 私はこれまで「萩藩陪臣データベース」を構築していく作業の中で、幕末諸隊の名簿を取り込むことを考えましたが、これがうまくいかない例に何度も遭遇しました。そして、奇兵隊における陪臣出身とされる隊士をさらに詳しく分析すると、上記(1)の結論はどうなのか? と思うようになってきました。

 そのあたりのことを次頁から示していきたいと思います。内容の一部は『山口県地方史研究』、『徳山地方郷土史研究』に投稿しております。


※1 東行記念館所蔵の「諸隊惣人員帳」というもので、御楯隊、第一遊撃軍、集義隊、南園隊、小郡屯兵、鴻城軍、舟木屯集人数、東光寺正義士、八幡隊、奇兵隊の名簿の合綴になっています。
※1, 2  いずれも、山口県によって発行された『山口県史 史料編 幕末維新6』(平成13年6月30日発行)に掲載されています。