奇兵隊士の分析 2.長藩奇兵隊名鑑について


 「前頁で紹介した「長藩奇兵隊名鑑」について、少し見ていきましょう。
 この名簿は隊士の氏名のイロハ順で、入隊日(書かれていない者も多い)、身分(所属)、氏名が書かれています。この後に、戦死、越後戦闘死傷録、病死、除隊ノ部、病院のくくりがありますが、病死の部に書かれている隊士だけ、全てではありませんが、身分が書かれています。

 それでは、「タの部」から、いくつか拾ってみましょう。

1 下ノ関竹崎年寄支配 田中 音吉 12 前大津裁判上村庄屋支配 竹中 勇記
2 山田佐助組豊槌育 田原 来助    <中略>  
3 元大津浅田村庄屋支配
当時山下新兵衛組
武林 隣平 31 毛利隠岐内 高津 又兵衛
4 福原五郎内 滝原 勉 32 前大津裁判庄屋支配 田中 初太郎
5 下ノ関竹崎年寄支配 高橋 伊之助 33 堅田健助内津田亀吉育 竹田 周三郎
6 飯田弥七郎組 伊達 十郎   <中略>  
7 元上ノ関裁判庄屋支配
当時栗栖源兵衛組
武広 九一 45 上関麻郷庄屋 高橋 五郎
8 益田主殿内 竹田 十郎 46 山田岩之助内 竹森 源二
9 同内 玉川 小文吾 47 泰雲寺内 竹井 満太郎
10   竹本 九郎 48 小郡大海庄屋 高橋 源吉
11 山下新兵衛組隣平倅 武林 次郎 49 寺社組 高橋 浮太郎

 1は下関の竹崎という町の年寄支配ですから、町人です。2の山田佐助組は中間の組で、その豊槌の育(はぐみ)とあります。育みとは、別のページにも書いているように「その家の人間ではないものの、養子縁組の形でその家に関係することで、身分的な格を上げようとする者」です。すなわち、田原来助自体は、扶養されているという身の上になります。しかし、小林氏の分類では「諸組」になってしまいます。3の山下新兵衛組も中間の組ですが、「諸組」になります。4が陪臣といわれている者の書き方で、この場合、萩藩永代家老の福原家の家中の者、という意味です。8、9は同じ永代家老の益田家家中の者です。10は何も書かれていません。これを9と同じだろう、として引用しているものをみることがありますが、同じときは、「同」とか「同断」と書かれるので、空白は「書いてない」と考えるのが正しいです。
 
11の山下新兵衛組は中間の組で、その隣平の倅(せがれ)は中間ではないので、「扶養者」に分類されることになります。33は堅田健助内とあり、これは藩士である堅田家の家中のものということになり、津田亀吉が堅田の家来ということになります。事実、幕末の堅田家の家中の記録(分限帳)には、津田亀吉が載っています。その育(はぐくみ)ですから、竹田周三郎は陪臣である津田の扶養者ということになります。47の泰雲寺内は寺に仕えた家来です。45、48は庄屋のように書かれていますが、これをそのまま庄屋と解釈すると奇兵隊にはかなりの庄屋がいたことになります。これは『山口県史』でも指摘されており、「庄屋存内」という意味だろうと思われます。

 この他の肩書きとして、例えば、「第二大砲組」、「御蔵許付」、「中士為蔵弟」、「下士正之助伯父」、「準士元地方組」、「無給通弘中甚之助育」などがあります。
 
「第二大砲組」は『もりのしげり』という毛利家事務所の職員によって編さんされた本でさえ、「未詳」とあり、よく分かっていませんが、データベースの作業をしていて、中間の者から幕末に編成された組であると最近分かってきました。
「御蔵許付」は中間(おくらもとちゅうげん)、「中士為蔵弟」は藩士の弟ですが、弟は中士ではありません。「下士正之助伯父」も藩士ですが、その伯父は扶養者です。「準士元地方組」は元は藩の中間(じかたぐみ)で、準士に昇格した者、「無給通弘中甚之助育」は藩士の育(はぐくみ)ですから、藩士ではありません。

 『郷土』の分析には、藩士の階級について解説がありますが、これは恐れながら、間違いが多く、それに基づいた分類なので、集計結果が怪しいところです。また、子どもや伯父、育を「扶養者」と大括りにしたところが、おもしろくないところです。 

では、上に書いた「○○○○内」という者を陪臣にして集計したことは、どうなのでしょうか?

それは次ページです。