萩藩の家臣団と禄高

戦国時代に中国地方の八ケ国を支配していた毛利氏は関ヶ原の戦いの後、防長二州(周防、長門。現在の山口県)の外様大名となりました。これが長州藩で、 石高は36万9411石。毛利氏は萩に城を築き、ゆえにこの藩は「萩藩」とも呼ばれます。
萩藩主の毛利家は毛利一族の本家ですが、分家筋に「末家(まっけ)」と呼ばれる一族があり、これらは支藩として山口県内に存在していました。

  長府藩  長府毛利家  8万3011石
  徳山藩  徳山毛利家  4万10石
  清末藩  清末毛利家  1万石
  岩国藩  岩国吉川家  6万1石
  (岩国藩は明治になって藩となりました)

繰り返しになりますが、萩藩の藩主と支藩の藩主は本家と分家の関係です。しかし、主人と家来の関係ではなく、支藩も「藩」である以上は、将軍の家来であり、大名です。

さて、これからが萩藩の家臣です。「一門(いちもん)」と呼ばれる家が六家、さらに準一門と呼ばれ永代家老である二家がありました。これらを総称して「一門八家(いちもんはっけ)」といいます。これらの家は毛利氏と姻戚関係の深い家で、いわば一族の家臣です。

   一門     宍戸家    1万1329石
   一門     右田毛利家 1万6023石
   一門     厚狭毛利家    8371石
   一門     吉敷毛利家 1万 855石
   一門     阿川毛利家   7391石
   一門     大野毛利家   8618石
   準一門    益田家    1万2063石
   準一門    福原家    1万1314石

これに続く家がいわゆる重臣であり、寄組(よりぐみ)と呼ばれる家々です。寄組の数は時代によって異なりますが、幕末では62家ありました。禄高順では筆頭が堅田家(6126石)、以下、国司家(5600石)、粟屋家(4915石) ....です。寄組は当職、当役といった藩の重要な役職を担当する家で、一代家老的な位置付けです。

     
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この次に続くのがいわゆる中堅格で大組(おおぐみ)と呼ばれる家々です。高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)はこのグループで、禄高は1000石から数十石の者まで、幅広くいました。テレビの三戸黄門でよく耳にする『代官(だいかん)』になるのが彼らです。


ちなみに萩藩では一代官の管轄する区域を「宰判(さいばん)」と呼んでいました。ですから、代官がいた所は代官所(だいかんしょ)ではなく、宰判所(さいばんしょ)です。これが今の『裁判所』の名前の由来です。


以下、遠近付(えんきんづき)、無給通(むきゅうどおり)、徒士(かち)、三十人通、(さんじゅうにんどおり)、士雇(さむらいやとい)、細工人(さいくにん)、......足軽(あしがる)、...中間(ちゅうげん)、.....と続きます。

ここで藩士の禄高について、「禄高100石」というと、一年に100石もらえるというものではありません。『高』というのは「高唱え(たかとなえ)』といい、いわば「我こそは....」と唱えるような家格(かかく)を表すものです。よって手取りの米の量ではありません。萩藩の場合、一般に実収高は四割(4ツ成)であり、即ち、

  100×0.4=40石 

となります。次にこれから御馳走米(ごちそうまい)というものが差し引かれます。これは、例えば給料をもらったときに、給付者に「どうもありがとうございます。まあこれで何か召しあがってください」と一部を差し出すもので、これは本人がそうするとか、そうしないとかではなく、全員一律に引かれます。ただし、これは『杉成法段分算(すぎなりほうだんぶんさん)といって、ある"しきい値"があり、これより多くもらっている人は多く、これよりも少ない人は多少少なく差し引かれます。しかし、萩藩は設立当時から大赤字財政だったので、分担金のような徴収がありました。結局、100石といいながら、今年は30石が手取り、ということになってしまいます。

高10石の家の場合、実収高は×0.4で4石、これからあれこれ引かれるとまあ3石程度の米を1年に得ることになります。これがいかほどかというと、当時、一人が1年に食べる米は1石8斗と見積もられています(一日5合で、旧暦は1年が360日)。3石であれば大人2人の飯米にも事欠く量です。高10石というのは上で述べた無給通(むきゅうどおり)あたりからちらほら見え、ということは、それ以下はどうやって暮らしていたの? という疑問がすぐにわいてきます。

「藩士といえども鍬(くわ)をもって農業を....」、というのが、時代劇の影響からか、イメージされます。でもこれは本当なのでしょうか? 

例えばこれを明らかにすることが、『平時』の研究です。