萩藩の陪臣について


萩藩陪臣とは?

厳密な定義は「萩藩陪臣の定義」で述べますが、「陪臣」と言う言葉は、「家来の家来」とか「又家来(またげらい)」と言う意味で、「直参(じきさん)」や「直臣(じきしん)」に相対する言葉です。萩藩の藩主が毛利氏で、萩藩士は毛利氏の家来、即ち、直参になります。萩藩士の家来(例えば、ご家老の家来)は毛利氏にとっては家来の家来ですから「陪臣」ということになります。これを「萩藩陪臣」と呼びます。


萩藩陪臣の定義
本藩(萩藩)の毛利家には分家があり、本藩とは独立した藩(支藩)として、長府藩、徳山藩、清末藩、岩国藩がありました。これらの藩の家来は、例えば「長府藩士」とか、「清末藩士」のように、支藩の藩士と呼び、本藩(萩藩)の陪臣とは別に考えます。即ち、萩藩の一門、準一門(永代家老)、寄組、大組、遠近付、....の諸士の家来が萩藩陪臣になるわけです。実際には、これまでの私の調査では家来がいるのは大組までで、遠近付の士に仕えた陪臣は確認できていません。『防長回天史』にも陪臣は藩士の禄高100石つき、2.333人の定員であったことが書かれていますので、禄高が50石に満たない遠近付の士は陪臣はいなかったと考えられます。

「禄高100石つき、2.333人の定員」との記載があるものの、これは実態とは無関係の数値です。藩士によってはこの倍近く家来を抱えている者もいます(永代家老益田家の場合、4.4人/100石)。

ところで、藩士の家来について、大まかに2つのタイプがイメージされます。

1) 家来として仕え、そのことに対し、給禄を主人から受ける。
 具体的には、主人の仕事の補佐やお供、主人の領地の管理などを業とし、その給料として、「分限帳に禄高が記載される」というものです。

2) 奉公人として仕え、そのことに対し、手当ほかを主人から受ける。
 具体的には、主人の屋敷で家事を行なったり、お供や小さな用事(
あいまいな表現ですが)を行なう者であるが、その代償が「分限帳に記載されない」というものです。

分限帳とは、雇用者(主人)が労務者(家来)の名前と給料(禄高)を書いたもので、いまふうに言えば、年俸も書いてある職員録のようなものです。

分限帳に書かれていることが重要で、これが陪臣と奉公人の明確な違いと考えます。
即ち、上記の1)を「藩士がもつ家来」=「萩藩陪臣」として考えていくことにします。



なぜ、陪臣に注目するのか?
萩藩では原則として藩士は城の近くに屋敷を構え、ここに住まなければなりませんでした。現在でも萩市の中心部から指月城に向って歩いてみると、城下町萩といわれることがよく分るでしょう。萩から出るときは許可を申し出ることが必要でした。一方、重臣や上級の家臣は地方に自分の領地を持っていました。これを「給領地(きゅうりょうち)」といい、彼らはそこの領主です。彼らは給領地に屋敷(下屋敷)を持つこともありましたが、上述のように原則、萩住居ですので、下屋敷の利用は限られた期間や特別な事情がある時ということになります。

では、給領地の日常の管理は誰が行なうのか?そこで出てくるのが彼らの家来である「萩藩陪臣」です。このことより、陪臣は地方に住むという特徴が指摘され(もちろん萩在住者もいます)、これが重要なポイントです。郷土史研究においては、どうしてもそこを拝領した領主に目を向けてしまいますが、領主はほとんど萩にいるのです。地方を調べたいのであれば、そこに住んでいた領主の家来、即ち、陪臣の研究が不可欠なのです。



陪臣についてはほとんど判っていないでも重要な存在!
給領地(地方)に土着していた陪臣は、その村の政治を行い、寺子屋を開き、碑を建て、さらに明治以降は戸長、村長になり...と、その村に大きな影響を与えました。しかし、実際のところ、その研究にほとんど手をつけられていません。論文も「萩藩の陪臣について」(木村礎,歴史学研究,220,昭和33年)くらいのものですが、この論文は陪臣の解明には程遠い内容です。


萩藩陪臣の人数
萩藩士の家来である萩藩陪臣はいったいどれくらいの人数だったのでしょうか?
これはなかなか難しい問題です。

『防長回天史』の第一編、41頁には以下のような記述があります。

此外高禄の士は其禄額に応じ各々家に陪臣を養ふ寛永の制高百石に二人三分を以て定員とす職務の為臨時に職俸を受くる者亦之を併算す天保の制改めて二人とす実置の人員時として之に及ばざるものあるも其数は蓋し甚だ多し故に六家両家老の如き五六百人の多きに至るものあり寛政三年の調査に據れば男女総人員三萬零九百八十二人とあり明治二年の調査に據れば戸数六千百五十七戸人口男女総数二萬五千四百八十七人とあり 此等の陪臣は一旦事あり 家主軍に従へば即ち兵賦に応じ兵を執て之れに随ふものとす之れが為めに出師に際し其兵数は藩主直轄の士卒の外猶ほ甚だ多きを知るべし陪臣の階級は其家に在りて士に準ずる者は藩士の次に班し其家に在りて卒に準ずる者は藩卒の次に班す

『防長回天史』は明治、大正期の文学・法律家(政治家)、末松謙澄(すえまつけんちょう)が独力で編纂したものです。末松は東京日日新聞の記者でしたが、伊藤博文の推薦で官界に入り、後に衆議院議員、貴族院議員、大臣を歴任しました。明治30年から毛利家編輯所総裁となり、大正9年に執筆したのが『防長回天史』です。様々な書物や研究に「防長回天史によれば」というように、『防長回天史』がバイブルのごとく引用されますが、これが幕末生まれ(1855年、福岡県行橋出身)の末松が、毛利家編輯所総裁という立場で書いたことに注意しなければならないと考えます。もちろん、書かれていることの多くは、大変参考になりますが、それが実態を表しているかどうかは、時として検証が必要になると考えます。 ...とはいえ、ここではまず『防長回天史』の記載を見てみます。

この文章には句読点がないので、読みにくいかもしれません。すこし解説しましょう。

はじめの「高禄の士」は禄高の高い藩士をさし、彼らが寛永年間の制度により禄高100石に対して2.333人の家来(陪臣)をもっていたことが書いてあります。その後、天保年間の制度で割合が2人になったとあります。しかし、実際には100石に対し2人に満たない場合もあり、一方、家老では500〜600人と多くの家来を持つ場合もあったようです。そして陪臣の数について「はなはだ多し」に続き、具体的な調査の数字として、

 寛政三(1791)年  男女総数 30,982人
 明治二(1869)年  男女総数 25,487人   戸数 6,157人


が書かれています。

さらに陪臣について、何か有事(戦いなど)があれば、主人の軍に従って挙兵したことが書かれており、そのため、藩主(毛利氏)が兵を集めると、藩士とその家来(陪臣)が従うことになるので、非常に大きな兵力となることが書かれています。陪臣の身分については、仕えている主人の家中で「士」に準ずる場合は藩士の次に分けられ、同じく家中で卒(そつ;足軽や中間に相当する)に準ずる場合は、藩卒の次となることが書かれています。

さて、話を陪臣の人数に戻しますが、「男女総数」というのは、当主の他、妻も入っているであろうし、あるいは祖父や祖母、妹なども入っていそうで、なんだかわけのわからないことになります。ここでは「何軒あったのか」を示すべきで、そうすると明治2年の6,157戸が具体的な数値として注目されます。
ではこの数値はどこからきたのか(明治2年の調査とは)、また藩士や農民などは何人いたのか、という疑問がわいてきます。

これは明治3年7月に明治政府に提出した藩の報告書が出典のようであり、この中に陪臣の数として6,157が書かれています。この中には

   藩士 3,000戸
   藩卒 3,991戸
   農商 113,674戸

とありますから、陪臣は藩士の2倍強、いたことが分かります。但し、明治のはじめに陪臣から農民に移籍した(帰農という)者がいることが指摘されます。また明治2年の調査がどれだけ厳密に行なわれたものだったかという問題もあります。これを検証するためには、6,157という数字の根拠を知ることが必要であり、これが『陪臣データベース』を構築しようと思ったきっかけです。


萩藩陪臣データベース

「萩藩陪臣の人数」のところで述べたように、「陪臣は藩士の2倍強はいた」ということは正しいとしても、これだけでは陪臣の分布や役割、存在意義を示すことはできません。このことから個々の陪臣についてのデータを集め、データベース化しようと思い、昭和63年から着手しました。当時のパソコンにはまだWindowsというものは無く、MS-DOS上で動く「F-CARD」というカード型データベースソフトに様々な史料を入力していきました。その後、しぶとくMS-DOSマシンを使っていましたが、Win98マシーンを購入したことを契機にMicrosoft Accessにデータを変換し、現在に至っています。

「明治2年の時点で、陪臣は6,157戸」という数字の根拠を知るために構築した『萩藩陪臣データベース』に現在、登録されている人数は4,860人(78.9%)です。これまで幕末から明治初期の文書(主として分限帳)を公的機関で閲覧したり、個人所蔵の文書を探索したりしてデータを集めました。しかし、発見されない家中も多く、6,157が正しい数字かどうか断言するに至っていません。しかし、これまで入力した4,860のデータと、失われている家中の予想される人数+αを考慮すると、6,157という数字はかなり信憑性の高い数字であると感じています。

そしてその80%近くが集められたこのデータベースを、今後の研究にどの様に生かすかという問題が、次に考えるべきことです。例えば、これまで萩藩陪臣データベースを使って、以下のような検討を行なってみました。


1) 陪臣うち、萩城下にするものは、陪臣全体の何%か?
 データベースでは1000人弱が萩に住んでいるという結果が得られました。データの収集率が78.9%ですから、およそ1000人から1500人が萩に住んでいたと予想され、陪臣数人のうち1人が萩在住と予想されます。これは萩藩士に仕える家来の多くが萩ではなく、地方に住んでいることを意味しています。即ち、陪臣の存在意義は主人のおそば近くでお仕えするということもあるのでしょうが、多くは地方にある主人の領地(給領地)の管理であったことが予想されます。

2) 萩に住む陪臣は萩のどこに住んでいたか?
 一般に萩城に近いほど重臣と言われ(観光的には)、また陪臣は主人の屋敷の中の宿舎のようなところに住んでいるイメージがありますが、データを集めると、主人の屋敷内に住む陪臣も多少はいるものの、多くは自分の屋敷を持ち、それも主人の屋敷の向いなどのように、非常に近い位置に住んでいることが分かりました。

などなど、現在もデータの収集をしながら、データベースを研究に活用しています。