奇兵隊士の分析 3.「○○○○内」は陪臣か?


 「長藩奇兵隊名鑑」で「○○○○内」と書かれた隊士は、陪臣と解釈され、分類されてきました。これは正しいのでしょうか。これを明らかにするため、名簿から「○○○○内」と書かれた隊士を抜き出してみました。全部で141人になります。『郷土』の集計値の127人より多いですが、まあそれはいいとして。

 1  毛利豊之進内  伊藤 勝蔵 48  村上河内  内田 三郎助 95  益田主殿内  藤田 育太郎
 2  仲正之助内  一倉 惣一 49  宍戸幹之進内  良城 恭蔵 96  益田主殿内  福原 三蔵
 3  福原五郎内 飯田 敏助  50  三浦平十郎内  吉村 常七 97  毛利少輔三郎内  福田 義作
 4  藤井平八郎内  岩根 幸助 51  毛利隠岐内  吉村 純助 98  繁沢河内内  小枝 祥之助
 5  佐久間良太郎内  今川 太郎 52  福原五郎内  滝原 勉 99  繁沢河内内  寺岡 軍一
 6  福原五郎内  石川 又一郎 53  益田主殿内  竹田 十郎 100  毛利隠岐内  有光 龍之進
 7  毛利少輔三郎内  飯田 新太郎 54  益田主殿内  玉川 小文吾 101  財満甚之允内  青山 辰太郎
 8  李家文厚内  泉 松二郎 55  宍戸丹波内  田辺 卯七郎 102  山田重作内  秋田 常太郎
 9  福原五郎内  伊藤 虎松 56  益田主殿内  宅野 金之允 103  中村末若内  足立 武之助
10  児玉小民部内  伊藤 俊蔵 57  毛利隠岐内  高津 又兵衛 104  山田重作内  荒瀬 清蔵
11  益田主殿内  林 芳太郎 58  山口洞泉寺内  玉木 軍司 105  毛利隠岐内  阿部 清見
12  益田主殿内  波田 権十郎 59  益田主殿内  玉江 芳彦 106  毛利隠岐内  阿部 直人
13  飯田小右衛門内  原 半 60  益田主殿内  田村 為吉 107  益田主殿内  榊 鑑四郎
14  加藤里見内  林 弥一郎 61  山田岩之助内  竹森 源二 108  堅田健助内  西郷運蔵
15  毛利隠岐内  西 三郎 62  泰雲寺内  竹井 満太郎 109  益田主殿内  作間 城蔵
16  三浦八百之助内  堀 弥三 63  益田主殿内  曽根 茂助 110  毛利隠岐内  境 重一
17  玉井小式部内  堀部 多門 64  益田主殿内  中村 正蔵 111  氷上山家来  佐伯 薫人
18  毛利隠岐内  東条 光平 65  宍戸備前内  長藤 覚助 112  益田主殿内  桐島 五郎
19  堅田健助内  戸沢 竹次郎 66  山田岩之助内  長島 義助 113  益田主殿内  木村 荘助
20  福原相模内  大石雄太郎 67  毛利隠岐内  内藤 九郎 114  山名惣兵衛内  三島 誠二
21  佐世仁蔵内  大多和 登一 68  口羽熊之允内  永松 幾之進 115  山名惣兵衛内  三島 健蔵
22  益田主殿内  岡部 東三 69  益田主殿内  村上 研吉 116  益田主殿内  道田 政七
23  毛利隠岐内  追風 護助 70  祖式金八郎内  村上 幾之進 117  福原五郎内  三井 絃二郎 
24  福原五郎内  大野 梅太郎 71  山口光台寺内  村上 市次郎 118  益田主殿内  三浦 平之助
25  福井源次郎内  岡 太郎 72  福原五郎内  村上 小次郎 119  福原相模内  三島 現八
26  益田主殿内  大庭 専助 73  益田主殿内  村岡 彦十郎 120  益田主殿内  城一 喜一
27  井上孫六内  大賀 芳蔵 74  益田主殿内  村田 団蔵 121  乃美山三郎内  滋野 謙太郎
28  毛利左門内  小野 耕作 75  益田主殿内  梅津 熊之進 122  益田主殿内  島城 久七
29  益田主殿内  大谷 音作 76  高洲三郎内  野村 慎太郎 123  毛利隠岐内  品川 迂助
30  東条小助方  渡辺 虎太郎 77  井上又五郎内  桑山 権吉 124  祖式宗助内  弘 省太郎
31  内藤作左衛門内  渡辺 義助 78  田中八郎次内  久野 喜蔵 125  毛利隠岐内  平川 彦助
32  堅田大和内  渡辺 小藤太 79  宍戸備前内  国弘 数馬 126  福原五郎内  日高 周平
33  益田主殿内  渡辺 九郎 80  益田主殿内  山中 静馬 127  毛利筑前内  檜垣 五三郎
34  益田主殿内  若月 健蔵 81  村上亀之助内  山崎 三郎 128  毛利隠岐内  森脇 友二
35  秋里音人内  桂 権吾 82  阿曾沼弥門内  安田 善二郎 129  益田主殿内  森 義助
36  井上源左衛門内  潟上 安熊 83  毛利筑前内  安田 豊 130  益田主殿内山下少輔組 森 栄蔵
37  小川彦兵衛内  河内 龍助 84  佐世仁蔵内  山本 作蔵 131  浦滋之助内  田中 弁蔵
38  益田主殿内  兼重 半蔵 85  宍戸備前内  山田 鵬輔 132  宍戸備中内  小須賀 逸衛
39  益田主殿内  川上 小市郎 86  益田主殿内  山下 半三郎 133  宍戸備前内  伯野 浪江
40  益田主殿内  河原 善一 87  山口元満寺内  松尾 宣太郎 134  益田主殿内  和田 三郎
41  毛利隠岐内  神出 浅次郎 88  益田主殿内  牧 小太郎 135  益田主殿内  笹倉 新之丞
42  福原五郎内  河野 秀雄 89  益田主殿内  松永 織之助 136  柳沢備後内  野田 蔵之助
43  祖式宗助内  柏村 俊一 90  柳田百合之助内  船井 鉄之助 137  椙杜駿河内  野村 織之助
44  宍戸仲内  加藤 隼之助 91  浦繁之助内  福田 喜作 138  山口大観寺内  岡村 房助
45  渡辺隼人内  茅 四郎 92  氷上山内  藤井 虎雄 139  益田主殿内  波田 仙一
46  毛利隠岐内  上領 重蔵 93  益田主殿内  藤川 五郎 140  福原五郎内  馬屋原彦右衛門
47  益田主殿内  金山 義十郎 94  宍戸備前内  蔵掛 源太郎 141  桂三郎太郎内  末久 亀次郎

 「内」より前の部分は主人、すなわち藩士ですから、その藩士の家中の分限帳でざっと調べてみました。ところが、氏名までばっちり合う者はいませんでした。それは、明治初年の改名や帰農、また、そもそもこの名簿にある者が戊辰戦争で生き残ったか、ということも関係してきます。
 次に調べたのが、賞典記録。生き残った者は明治2年にそれなりの恩賞を藩から賜りました。この記録(毛利家文庫)を丹念に調べ、以下の21人いついて、もう少し詳しい身の上を知ることができました。表の左の番号は上の表に対応しており、右の欄が判った詳しい身分です。

2 仲正助内  一倉 惣一 <推定>仲庄之介家臣 一倉文之進弟  
3 福原五郎内  飯田 敏助 福原越後臣勘右エ門四男
10 児玉小民部内  伊藤 俊蔵 <推定>勘右衛門
15 毛利隠岐内  西 三郎 毛利隠岐内安部勝馬二男
19 堅田健助内  戸沢 竹次郎 戸沢芳助二男
20 福原相模内  大石雄太郎 福原相模臣山本庄右衛門四男
29 益田主殿内  大谷 音作 益田宇右衛門家来本人
33 益田主殿内  渡辺 九郎 <推定>益田主殿家来本人
34 益田主殿内  若月 健蔵 益田主殿臣梅之進二男
35 秋里音人内  桂 権吾 秋里音人臣東英二男
46 毛利隠岐内  上領 重蔵 <推定>毛利隠岐家臣上領国衛叔父
62 泰雲寺内  竹井 満太郎 泰雲寺臣吉富庄之進長男
100 毛利隠岐内  有光 龍之進 毛利隠岐内右源太三男
105 毛利隠岐内  阿部 清見 <推定>毛利隠岐家臣安部勝馬叔父
106 毛利隠岐内  阿部 直人 <推定>毛利隠岐家臣安部勝馬叔父
108 堅田健助内  西郷 運蔵 堅田健助家来安宅二男
119 福原相模内  三島 現八 <推定>福原家臣三嶋万左衛門 
121 乃美山三郎内  滋野 謙太郎 乃美山三郎臣謙次嫡子
127 毛利筑前内  檜垣 五三郎 右田毛利ノ臣門弥三男
141 桂三郎太郎内 末久 亀次郎 <推定>辰之進倅 友之進

すなわち、詳しい身分が判った21名の内、自身が陪臣であったのはわずか2名(「本人」と書かれた者)で、その他の19名は、いわゆる「扶養者」だったのです。藩士の分類の際に扶養者を除いたのであれば、陪臣も除くべきで、そうすると陪臣の比率はぐっと下がることになるでしょう。


 最後に、奇兵隊日記にある記載をご紹介し、「陪臣」の立場をみてみたいと思います。

元治元年(1864)、12月23日 曇 の奇兵隊日記の一つ書きの4番目に次のようにあります。

一 戸田藩臣福永得三福永元之祐瀧山克己村橋牧太脱走入隊願出候ニ付槍隊江留置候事 

戸田藩の家来、福永得三、福永元之祐、瀧山克己、村橋牧太が脱走して(奇兵隊へ)入隊を願い出たので、槍(やり)隊に留め置いた。

というものです。戸田というのは、今の山口県周南市大字戸田。その領主は萩藩士(寄組)の堅田家でした。すなわち、福永以下4名は堅田家の家来(陪臣)ということです。事実、彼らは200人近くいた堅田の家来の中でも、家老や筆順の高い家の者です。
 元治元年の12月15日に高杉晋作が長府功山寺で決起し、諸隊 vs 藩の内乱が起きます(内訌戦)。23日は奇兵隊が勝ち進んで萩に向けて北上し、美祢に陣をはっていたころです。そこに、脱走して入隊を願い出た、ということは、主人の許しを得ず、それこそ居ても立ってもおれず、奇兵隊に加わったことを表しています。彼らは勝手な行動を取ったことで、しばらく謹慎になりますが、その後、藩の体制が正義派に転換したことから、脱走入隊のことは、堅田氏から許されます(堅田健助日記より)。
 何が言いたいかというと、主人に仕える陪臣とは、本来は主人の許し無く、勝手な行動はとれない(とらない)身の上だったということです。陪臣が自分たちの立場を云々という理由で、諸隊に加わるということはありえないと私は考えています。これに対し、陪臣の扶養者は機会があれば、自らの力を発揮できる場を求めたということはあるでしょう。このあたりの区別を明確にして、「内」という記載を解釈する必要があるでしょう。

では。