<取り壊し寸前の家の持ち主に、「ください」とお願いしていただいたふすま>


  (その2) 役場文書


裂けてますが...。

こんな罫紙の文書が出てきたら、明治の役場文書です。



山口県大書記官に玄米39石6斗4升を使って醸造(酒をつくる)の許可を願い出たものです。明治11年3月25日という日付も見えます。当時の法令を調べれば、醸造には許可が必要なことは分かりますが、その願書の本物がゲットできるところがふすまはがしのおもしろいところです。

次も典型的な役場文書です。


右側には願い主の住所や名前が、続いて願いの内容、そして明治11年の日付の下に戸長(こちょう)の名前があります。このころは「村長」の前身の戸長が役場としての業務を行っていました。これを「戸長役場」といいます。戸長役場は公的な建物がない場合が多く、戸長の自宅で実務が行われることも多くありました。
ここに見える「田坂耕造」という人物は、元萩藩の陪臣です。戸長は当然のことながら読み書きができ、さらに村人から尊敬されるべき人物である必要があったでしょうから、その村に住む武家出身者が戸長になることが多かったようです。ちなみに副戸長は廃藩置県直前の庄屋が務めていました。
明治後期の地税の納付金を示した表なんかも出てきたりします。

この頃はきちんとした「村役場」というものがあったのですが、廃棄文書の管理は今の世のような個人情報の配慮なんか全くなかったのか、個人のふすまの下張りに使われたということです。
「何々警察署長何々警部何某殿(なになに警察署長 なになに警部 なにがし殿」という書き方が、雛形の典型です。
しかし、これは信じられない。埋葬認許証です。

それも一枚どころではない、おびただしい数の埋葬の許可証が個人の家のふすまから出てきました。このふすまは家の台所と寝室を仕切るために使われていました。なんだか....。
小さな紙切れですが、「納税伝令書」です。

具体的には、「土地の税金(地租)をいついつまでに納めなさい」というものです。このような『文書』は個人の家には残っても、公の機関には残らない可能性があります。個人の家でも、税金を納めたら捨てしまうでしょう。この文書の歴史的価値は....、無いとは言えないでしょう。
地積図もでてきました。

三角形や単純な四角形で書いてありますが、真面目に測量したとは思えない。実際、ここにある土地は山林のものですが、山口県は山林の図面が全くなかったのです。
地租改正とその運用に関する文書が、右の箱いっぱい出てきました。

骨董的な価値は勿論ありませんし、私はそれを求めているのではありません。これらの文書は制度の実施の現実を窺い知るには、無くてはならないもの、と考えるのです。